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退職教師の日本史授業

パワーポイントを用いて作った教材(主に日本史)を紹介します。その他、退職後の生活あれこれも。

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国家安康 

江戸幕府

 今日は江戸幕府の成立のスライドの紹介です。

 こちらにアクセスし、江戸幕府の成立のところをクリックしてください。

 この教材はパワーポイントで作成しています。PPTファイルの閲覧にはPowerPoint Viewerが必要です。ダウンロードはこちらから。

 今日は家康が関ヶ原の戦い後征夷大将軍となり、江戸幕府を開くところです。
 1603年家康は征夷大将軍に就任し、江戸幕府の成立となります。征夷大将軍として幕府を開くため、徳川氏の系図の改姓を行ったというような話もあります。過去征夷大将軍となったのは、源氏。足利氏。どちらも清和源氏です。将軍になれるのは清和源氏の嫡流という慣例があったため、家康は徳川氏の系図を足利氏と同じく源義家に通じるように捏造させたと言われています。しかし実際には清和源氏の出でなくとも将軍職へつくことは問題がなく、鎌倉時代には摂家将軍や皇族将軍の例もあるので、将軍になるには清和源氏でなければならないというのは江戸時代に作られた話だと言われていますんで、どうもこれも眉つばもののようです。

 1605年、家康は将軍職を息子秀忠に譲ってしまいます。これはこののち将軍職は徳川氏の世襲とするということを天下に示したことになります。1607年には駿府へ隠退。大御所と称します。政治の実権は依然として家康が握っていたため、大御所政治と称されます。幕府の制度づくりにつとめます。

 1614年、大坂冬の陣がおきます。家康は、徳川氏と豊臣氏の共存を模索しているような動きもありました。秀吉の遺言を受けて、孫娘千姫を秀頼に嫁がせたりもしました。しかし、豊臣家は政権を奪われたわけですから家康をよく思うはずがありません。豊臣家は徳川氏との決戦に備えて多くの浪人を雇い入れたりもします。そんな中での方広寺鐘名事件です。

 方広寺鐘銘事件とは?豊臣氏は家康のすすめで1614年に京都方広寺を再建し、大仏殿の開眼供養を行うことにしました。しかし幕府は、方広寺の鐘の銘文中に不適切な語があるとして供養を差し止めました。鐘の銘文中の「国家安康」「君臣豊楽」が問題となったのです。家康が分断されていますし、豊臣を祝うようにもみえます。これに対して豊臣氏は弁明しますが、幕府は聞く耳もたずです。結果、最終的には豊臣氏が浪人を集めて軍備を増強していることを理由に、豊臣氏に宣戦布告したのです。これが大坂冬の陣です。この事件は、豊臣氏を攻撃するための口実とするためだと言われています。

 結果、1615年1月中旬までに大坂城は本丸だけを残す無防備な裸城となりました。

 では次回は大坂夏の陣を。



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たまたま本で知っていました
一方、予習していた同級生はえらく気に入ったようです

中学生の私たちは
「国家安康」事件で盛り上がったことを覚えています
2人で笑いながらこの件について話しておりました

FREUDE #6AWUBD.o | URL | 2013/05/17 07:58 * edit *

おもしろいです。。。

YUMIさま^^こんにちは~♪

うすら覚えだったのですが、流れが分かりました。
新しくなった大阪城にも機会がありましたら、
昔1度行ったきりですので、足を運びたいです。
方広寺鐘銘事件など情感の歴史はおもしろいです。。。

今朝BSで秀吉と利休をしておりましたが、
YUMIさまのおかげで張り付いて見ました(#^.^#)。
いつも分かりやすいご説明をありがとうございます~♪

紗真紗 #- | URL | 2013/05/17 12:36 * edit *

「国家安康」「君臣豊楽」~権力争いの大義名分は何とでもなるのでしょう。価値基準の異なる2大勢力は、いずれ決着をつけなければならなくなる運命にあったものと思います。

jsk #gk2i27Ik | URL | 2013/05/17 14:53 * edit *

FREUDEさんへ

FREUDEさん、こんにちは。
方広寺のこの話、そんなに中学生興味を持つ話なんだ。
でも、家康も国家安康に難癖つけるのは、ちょっとなーと思いますよ。
みえみえ。

YUMI #- | URL | 2013/05/17 16:08 * edit *

紗真紗さんへ

紗真紗さん、こんにいちは。
恥ずかしながら、私まだ大坂城行ったことがないのです。
というか、大阪に行ったことがないのです。

秀吉の利休の話は面白いですよね。
真相はいかに?

YUMI #- | URL | 2013/05/17 16:11 * edit *

jskさんへ

jskさん、こんにちは。
大義名分、ただの難癖なんですけどね。
たしかに、どこかで決着をつけなければならなったでしょう。
この時点では、遅かったのか、早かったのか?

YUMI #- | URL | 2013/05/17 16:12 * edit *

YUMIさんこんにちは~~♪
たぬき親父が露骨に出始めだした一つの例ですね(笑)
この頃は豊臣家の潤沢な資金がまだ徳川を上回っていたこともあり、いわば無駄な豊臣家に出費をどんどんさせたのが大仏建立でしょう。
挙句は鐘銘に難癖をつけて戦に持ち込んだのも策士ですね~
余談ですが徳川御三家を決めたのも実に老獪で、家康の子どものいちばん下の三人を御三家にしてるんですよね。
将軍家と年がすごく離れているので、もしもというときは若い御三家から選ばせることまで考えていたようで空恐ろしいほどの老獪さです(*^_^*)

まり姫 #8m8hig/. | URL | 2013/05/17 17:05 * edit *

まり姫さんへ

まり姫さん、こんばんは。
たぬき親父家康の出番です(#^^#)
徳川御三家、確かに下の三人ですね。
将軍家と年が離れているから、もしもの時はって、すごいですね。
それじゃ、秀忠も家光も立つ瀬がないねー。

YUMI #- | URL | 2013/05/17 20:30 * edit *

初めて聞いたときは、ひどいこじつけ、難癖だと思ったものです。

実際にはどんな銘文だったのか…、と確かめてきた写真と記事はお読みいただきましたね。あんなに大きな鐘の、長い銘文の中のほんの一節…。
昔の人にとっては、それでもその一字一句が大切だったのでしょう。

ディック #22hNL7Yc | URL | 2013/05/17 20:57 * edit *

家康は、天下を手に入れるため、着々と用意をしているという感じで、
いよいよこれから家康と秀吉の違いが如実になっていきますね。


方広寺鐘銘事件の内容を初めて聞いた時、私は冗談かと思いました(笑)。
徳川にとっては大まじめだったのかなあ。

takae h #A5.soH/6 | URL | 2013/05/17 23:58 * edit *

ディックさんへ

ディックさん、おはようございます。
方広寺の写真、みせていただきました。
ホント長い銘文のほんの一部。
こじつけられればなんでもいいという感じです。
豊臣も無防備?
いやー、国家安康にそんなこじつけが来るとは思いませんよね。

YUMI #- | URL | 2013/05/18 06:01 * edit *

take hさんへ

takae hさん、おはようございます。
ホント、冗談のような話ですよね。
でも、どちらも学者も関係していたり…
まあ、大真面目だったんでしょうね(-_-;)

YUMI #- | URL | 2013/05/18 07:52 * edit *

YUMIさん、こんばんは。

いよいよ大坂の陣ですね。
真田信繁(幸村)、むかしから好きな武将なんです。
むかし中村錦之助が演じた「真田幸村」、夢中で見ました(^^)
最後は家康の本陣に突っ込ませたかったなあ(^^)

ところで、今回の記事で、気がついた点を2点ほど。
まず、方広寺の大仏建立について、家康の勧めで、ありますが、これは違います。
秀頼による一連の寺社造営事業は、『当代記』に「この二、三年、国々伽藍、秀頼公より建立したまふこと甚だしき也、さだめて心中に立願の儀あるか」とあるように、秀頼側の意思で、積極的におこなわれたものです。
この秀頼の社寺造営事業は、現在までのところ、畿内を中心に、近江・伊勢・紀伊・尾張・出雲など、計10ヶ国に及び、その内訳は、神社32・寺院50・橋梁3、計85カ所に及ぶことが確認されています。
もっとも、当初は、秀頼は幼いため、それは淀殿や片桐且元が中心となって進めたものでしょう。
人々は、これにより、秀吉が残した莫大な財宝は、底をつきてしまうとささやきあったと伝えられていますが(『当代記』慶長15年6月16日条)、この話が脚色されて、これは家康が、亡き太閤殿下の菩提を弔うために寺社の造営が良いと進めたもので、家康の狙いは、太閤の残した莫大な財宝を使わせてしまうことにあったという、家康の策略説が後世になって作られました。
たしかに、この事業によって秀吉の残した莫大な財産が目減りすれば、家康にしても好都合だったかもしれませんが、あくまでも事業は、秀頼側が積極的に推進したもので、家康の策略にひかかったというようなものではありません。
しかも、寺社の再興事業は、すでに父秀吉がはじめていたもので、秀頼はそれを継承したものです。
秀頼はそのことで、豊臣政権の連続性を天下に主張し、天下人の責務とされた寺社造営を進めることで、豊臣家の威信を確保しようとしたのでしょう。
その意味では、豊臣家にとっては、とても大切な事業だったと思われます。
もっとも世間では、まだ家康の老獪さに結びつけて考える説のほうが根強いみたいですね。

ちなみに、まり姫さんが指摘されている「御三家」も、結果的に「御三家」になったもので、少なくとも家康や秀忠の時代には、「御三家」という言葉は生まれていません。

つぎに、方広寺の鐘銘事件ですが、これもよく世間で言われているような「こじつけ」ではなく、はじめから豊臣側(撰文者の清韓)は、「家康」と「豊臣」の名をこめて銘文を作成しています。
この事件の問題は、すでに笠谷さんが指摘しているように、呪詛云々ではなく、家康の名前を無断で使ったという点に、豊臣側の落ち度があり、そこをチャンス到来と家康側に突かれたのが、真相でしょう。
この問題に関しては、少し説明が必要なので、論点を整理されている笠谷和比古『関ヶ原合戦と大坂の陣』吉川弘文館のp209などを参考にされる良いと思います。

まこべえ #2XsKFzVg | URL | 2013/05/18 22:28 * edit *

まこべえさんへ

まこべえさん、おはようございます。
まこべえさん、真田雪村お好きですか。
生徒にも雪村ファンは多かったですよ。
私は真田太平記、大好きです。

家康の狙いは、秀吉の残した莫大な財産を使わせてしまうことにあったという、家康の策略説は後世の作ですか。
すみません、勉強不足です。
しかし、家康にしてもいい迷惑ですね。
家康の老獪さ、たぬき親父ぶりを印象付ける話ですからね。

家康の名前を無断で使ったという点に、豊臣側の落ち度がありとありますが、でも国家安康はそれでひとつの言葉であって、家康の名を使ったというのはちがうような気がしますが、それは現代人の考え方でしょうかね。
まあ、そういうところをチャンスと考えるのが、家康のすごいところでしょうか。

今回も勉強になりました。
ありがとうございました。

YUMI #- | URL | 2013/05/19 09:00 * edit *
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