QLOOKアクセス解析

退職教師の日本史授業

パワーポイントを用いて作った教材(主に日本史)を紹介します。その他、退職後の生活あれこれも。

スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

[edit]

由比ヶ浜の人骨 

鎌倉幕府の滅亡

今日は鎌倉幕府の滅亡のスライド7回目です。

鎌倉幕府の滅亡のスライドはこちらから

インターネットエクスプローラ9以上では、レイアウトが崩れて見えるようです。その場合は、互換モード(F12を押してブラウザモードを互換モードにする)でご覧ください。

この教材はパワーポイントで作成しています。PPTファイルの閲覧にはPowerPoint Viewerが必要です。
ダウンロードはこちらから。

1333年に後醍醐天皇が隠岐を脱出して船上山で挙兵すると、幕府は倒幕勢力を鎮圧するため、足利高氏(尊氏)を京都へ派遣しました。しかし高氏は後醍醐天皇方に寝返って六波羅探題を攻めます。関東では上野国の御家人新田義貞が挙兵し、幕府軍を破り鎌倉へ進撃します。新田軍が鎌倉へ侵攻すると、北条高時は菩提寺の東勝寺へ退き、北条一族や家臣らとともにそこで自刃しました。享年31。

まずはその北条高時について。
北条高時は、闘犬や田楽が好きだった暗君として書かれることが多いです。ただし高時の実像を伝える当時の資料は少なく、こうした高時像は、足利尊氏を正当化するための誇張も含まれているのではないかとも言われています。当時の少ない資料によると、彼が病弱だったことが強調されています。

高時も幕府を滅亡に追い込んだ暗愚な執権と言われますが、もうひとり滅亡に際しての悪役として長崎高資(ながさきたかすけ)がいます。長崎高資は、北条得宗家の被官である御内人の代表内管領で、高時の時代の内管領です。やはり高時らとともに東勝寺で自害しました。

東勝寺は、1998年、「東勝寺跡」として国の史跡に指定されました。かつての寺域には「腹切りやぐら」と称される空間が今ものこります。

また、新田義貞のこの鎌倉攻めで、多くの戦死者がでました。1953年、由比ケ浜で多くの人骨が発見されました。これらの人骨はほとんどが壮年の男性のもので、戦いのものと思われる傷が見られました。また一部の骨には動物にかじられたあとがあったり、経文らしき漢字が墨書された骨もありました。これらのことによって、新田義貞に攻められた戦いで多くの死体が放置され、野犬により肉を喰い荒らされ、またそれを僧侶が埋葬したのではないかと言われています。


本日もお読みいただき、ありがとうございます。
予約投稿です。
コメント欄は閉じさせていただきます。
ブログランキングに参加しています。1日1回応援のポチッをよろしくお願いいたします。

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

人気ブログランキングへ
スポンサーサイト

[edit]

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。