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退職教師の日本史授業

パワーポイントを用いて作った教材(主に日本史)を紹介します。その他、退職後の生活あれこれも。

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護良親王と楠木正成 

鎌倉幕府の滅亡

今日は鎌倉幕府の滅亡のスライド5回目です。

鎌倉幕府の滅亡のスライドはこちらから

インターネットエクスプローラ9以上では、レイアウトが崩れて見えるようです。その場合は、互換モード(F12を押してブラウザモードを互換モードにする)でご覧ください。

この教材はパワーポイントで作成しています。PPTファイルの閲覧にはPowerPoint Viewerが必要です。
ダウンロードはこちらから。

後醍醐天皇が隠岐に流された時期、後醍醐天皇の皇子護良親王(もりながしんのう、またはもりよししんのう)や河内の楠木正成、播磨の赤松則村らの反幕府勢力が各地で活動していました。このような情勢の中、後醍醐は1333年、名和長年(なわながとし)らの力により隠岐島から脱出し、伯耆船上山で挙兵しました。これを追討するために幕府から派遣された足利高氏が後醍醐方に味方して六波羅探題を攻めます。その直後に東国で挙兵した新田義貞は鎌倉を陥落させて北条氏を滅亡させました。

ここにでてきた護良親王は、後醍醐天皇の画策で、天台座主(てんだいざす、天台宗のトップ)となりました。これは後醍醐方が僧兵を利用したいという思いもあったからでしょうか。親王は武芸を好み、異例の天台座主でした。元弘の変ののち還俗(げんぞく)して倒幕に参加します。以後、令旨を発して反幕府勢力を募り、2年にわたり幕府軍と戦い続け、京都の六波羅探題を滅ぼしました。

楠木正成は現在の大阪府南河内郡千早赤阪村の生まれとされ、悪党(あくとう)と呼ばれた豪族であったと考えられています。後醍醐天皇の挙兵を聞くと下赤坂城で挙兵し、後醍醐が隠岐島に流罪となっている間にも、護良親王とともに、河内国の上赤坂城や金剛山に築いた山城、千早城に籠城してゲリラ戦法や糞尿攻撃などを行い、幕府の大軍を相手に大奮戦しました。

1333年、こうした正成らの活躍に触発されて各地に倒幕の機運が広がり、足利高氏や新田義貞らが挙兵して鎌倉幕府は滅びました。
足利高氏は幕府方の大将であったのが後醍醐天皇方に寝返り、佐々木道誉や赤松則村らと呼応して六波羅探題を攻め落しました。

足利高氏は幕府の有力御家人でありながら、なぜ寝返ったのか?では、そのあたりからまた次回。


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