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退職教師の日本史授業

パワーポイントを用いて作った教材(主に日本史)を紹介します。その他、退職後の生活あれこれも。

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火牛の計 

今日も源平の争乱のスライドの紹介です。

源平の争乱のスライドはこちらから。

インターネットエクスプローラ9以上では、レイアウトが崩れて見えるようです。その場合は、互換モード(F12を押してブラウザモードを互換モードにする)でご覧ください。

この教材はパワーポイントで作成しています。PPTファイルの閲覧にはPowerPoint Viewerが必要です。
ダウンロードはこちらから。

今日は源平の争乱の6回目です。
富士川の戦で勝利した頼朝は関東武士団の代表とみなされ、鎌倉殿と称されるようになります。鎌倉を政権の本拠地とし、関東の経営に専念します。頼朝は上洛も検討したようですが、関東武士の大半は東国の政治的安定を望んだようです。頼朝はそうした武士団を統率するため侍所を設置し、和田義盛を初代別当とします。
頼朝自身は、京都へ行き都の政治への復帰を望んでもいたようです。

しかし、そうしなくてよかったのではないかと思います。富士川の戦いで勢いづき、そのまま都に行っても平氏を倒すことはできたかもしれません。でもそれをやったら、清盛の二の舞だったかもしれません。あれよあれよという間に政権のトップにおどりでて、どうしていいかわからないという状態に。

信濃では源義仲が挙兵します。1181年、越後から北陸道へと進みました。1182年、北陸に逃れてきた以仁王の子とともに、以仁王挙兵を継承しようとします。また頼朝と結んで南信濃に進出した甲斐源氏との衝突を避けるために、頼朝の勢力が浸透していない北陸に勢力を広めました。

1183年、頼朝と義仲の関係が悪化しました。両者の衝突を避けるために、義仲は息子義高を人質として鎌倉に送ることで頼朝との対立は一旦は避けられました(頼朝の長女大姫の婿となります)。しかし、結局義高は鎌倉方の手で殺されてしまいます。大姫は嘆き悲しみ、病床に伏して早世してしまいます。

倶利伽羅峠の戦いで10万とも言われる平維盛率いる平氏軍を破り、続く篠原の戦いにも勝利して勢いに乗った義仲軍は、京都を目指して進軍しました。

倶利伽羅峠の戦いは、平氏軍が寝静まった夜、義仲軍は突然大きな音を立てながら攻撃を仕掛けました。大混乱になった平氏軍は唯一敵が攻め寄せてこない方向へ逃げようとしますが、そこは倶利伽羅峠の崖でした。平氏軍は次々に谷底に落ちていきました。

この攻撃で義仲軍が数百頭の牛の角に松明をくくりつけて平氏軍に向け放ったという話があります。しかしこの戦術が実際本当に使われたのかどうかについては疑問視もされています。眼の前に松明の火をつきつけられた牛が、敵に向かってまっすぐ突進していくとは考えにくいからです。でも、なかなか絵になる場面ではありますけれど。

中国戦国時代の斉国の武将田単がこの火牛の計を用いました。これを下敷きに後世創作されたのだと思われます。中国での火牛の計は、角には剣を、尾に松明をくくりつけるというもので、突進する牛の角の剣が敵を次々に刺し殺し、尾の火が燃え移り火事をおこすというものですが。
田単は先日まで読んでいた「楽毅」にも登場してきた将軍で、あらーと思いました。

こうした中、平氏は安徳天皇を擁して西国へ逃れました。

義仲軍は頼朝に先立ち都に入ることに成功しました。当初、都では貴族から庶民まで義仲の入京を歓迎したそうですが、以前にも書いた飢饉の影響により、義仲軍を養う食糧が不足、義仲軍は略奪狼藉を繰り返したため、義仲の評判は落ちて、頼朝上洛を願う声が高まります。


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倶利伽羅峠の戦い…
戦への興味ももちろんですが
「倶利伽羅」という地名が実に興味深い。

こういう地名を見ていると
安易な地名改変に怒りを感じますね。

よっちん #WeUJiN46 | URL | 2012/03/25 08:28 * edit *

よっちんさんへ

よっちんさん、こんにちは。
倶利伽羅峠、たしかにいい地名ですね。
このあと一ノ谷、屋島、壇ノ浦と続きます。

一ノ谷や屋島は、地名自体は普通の地名かもしれませんが、源平の戦いの美しい話が残っているおかげで、なんだか趣のある地名にきこえてしまいます。

YUMI #- | URL | 2012/03/25 12:52 * edit *

ひょっとして・・・

火牛の計が、後世、つけくわえられたお話とすると、「倶利伽羅」の名前から連想されたものとは、考えられませんかね。

「倶利伽羅不動寺」の倶利伽羅不動明王のイメージから、火を使った作戦を使った・・という伝説が生まれた可能性はないかしら?

なんて、考えていました。

yumin #Ucsnf9Dg | URL | 2012/03/25 15:49 * edit *

yuminさんへ

yuminさん、こんにちは。
> 火牛の計が、後世、つけくわえられたお話とすると、「倶利伽羅」の名前から連想されたものとは、考えられませんかね。

> 「倶利伽羅不動寺」の倶利伽羅不動明王のイメージから、火を使った作戦を使った・・という伝説が生まれた可能性はないかしら?

それあるかもしれませんね。
不動明王から火。うーん、本当にあり得そう。
どうせなら、倶利伽羅剣の竜をからませた話でも良かったかも。
倶利伽羅峠って、ホント意味ある地名ですよね。

YUMI #- | URL | 2012/03/25 16:31 * edit *

YUMIさんこんにちは~♪
倶利伽羅峠の戦いはあまりにも有名な話になってますね^^
義仲も行家のそそのかしに乗ったのが不幸の始まりだったのじゃないかなんて考えはダメでしょうか(*^_^*)
兵站のこともありますが、義仲が都で政治に携わるだけの準備もしてなかったのではとも考えられますよね。
頼朝との差はそのあたりじゃないでしょうか。

まり姫 #8m8hig/. | URL | 2012/03/25 17:06 * edit *

飢饉の影響

義仲の今日での狼藉はかねて学んだところでしたが、
其れも「西国飢饉」の影響があったのですね。

この飢饉、歴史を替える役割も担った大きな飢饉。(応援)

ijin #7ozVZe.w | URL | 2012/03/25 20:48 * edit *

まり姫さんへ

まり姫さん、こんばんは。
> 義仲も行家のそそのかしに乗ったのが不幸の始まりだったのじゃないかなんて考えはダメでしょうか(*^_^*)
いいんじゃないですか(^_^)v
確かに兵站だけではなく、義仲がもしも都で受け入れられたとしても、政治に参加は無理だったのではないでしょうかね。
頼朝は政治家ですよね。

YUMI #- | URL | 2012/03/25 20:55 * edit *

ijinさんへ

ijinさん、こんばんは。
この西国の飢饉は、本当に歴史をかえたと思います。
義仲しかり、富士川の戦いしかり、鎌倉を政治の場としたことしかり…
人間の力ではどうしようもない気候が歴史をかえるんですね。
それを人間がどう利用するかですね。

YUMI #- | URL | 2012/03/25 20:58 * edit *

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# |  | 2012/03/25 21:51 * edit *
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