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退職教師の日本史授業

パワーポイントを用いて作った教材(主に日本史)を紹介します。その他、退職後の生活あれこれも。

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まねをするしかなかった清盛 

院政のスライドの第9回。今日は清盛です。

前回2月24日に平治の乱(後白河と藤原信頼)の記事を載せたのですが、誤ってこの記事を削除してしまいました。再度思い出しながら書いたものを載せましたが、前と多少かわってしまったかもしれません。またコメントを入れてくださった方、これも一緒に消えてしまいました。申し訳ありません。

院政のスライドはこちらから。

インターネットエクスプローラ9以上では、レイアウトが崩れて見えるようです。その場合は、互換モード(F12を押してブラウザモードを互換モードにする)でご覧ください。

私はインターネットエクスプローラーを使用しています。グーグルクロームを使うと、スライドが一部きちんと表示されないようです。(グーグルクロームを使ってはじめてわかりました)グーグルクロームをお使いの方、またうまく表示されない方、申し訳ありません。

この教材はパワーポイントで作成しています。PPTファイルの閲覧にはPowerPoint Viewerが必要です。
ダウンロードはこちらから。

平治の乱後の平氏の動きを、年をおってみていきましょう。
1159年、平清盛は平治の乱の功で従二位大納言になります。1164年、清盛と平氏一族は平家納経(法華経を書写)を安芸厳島神社に奉納します。1165年、後白河上皇は、清盛の助力を得て蓮華王院(三十三間堂)を建てます。これは上皇と清盛の蜜月時代を象徴するものと思われます。今後このふたりの関係は変化していきますから。

1165年、重体の二条天皇(23歳)が譲位し亡くなります。六条天皇が即位し、憲仁親王(父は後白河、母は平滋子。滋子は清盛の妻時子の妹)が皇太子となります。

1166年、後白河上皇は、源頼政の昇殿を許可します。これは源平迭立に軸足を移すためと思われます。源頼政は、平治の乱のとき藤原信頼とともに戦うのを良しとせず清盛方につきました。そのため清盛から信頼され、晩年には武士としては破格の従三位になります。しかし、平氏の専横に不満が高まる中、以仁王と結んで平氏打倒の挙兵をし、諸国の源氏に平氏打倒の令旨を伝えました。準備不足のままの挙兵となり、宇治平等院の戦いで敗れ自害しました。まあ、このあたりの話は、また平氏滅亡のところで。

1167年、清盛は従一位、武家にして初の太政大臣になりますが、5月には太政大臣を退き出家します。
1168年、六条天皇は譲位し、3月に高倉天皇(8歳)が即位します。高倉天皇は先に出てきた後白河と滋子の子です。1171年、清盛の娘徳子(17歳)が高倉天皇(11歳)の中宮となります。

1173年、清盛は日宋貿易の瀬戸内海航路の安全を確保するために大輪田泊(今の神戸港)を修築します。

このように、平氏は全盛期への階段を登っていきますが、平氏政権は、摂関家的手法と武士的な主従関係の両面性をもっています。たとえば、天皇家との姻戚関係の設定です。上にも書いたように、娘徳子を高倉天皇の中宮にし、あいだに生まれた子を安徳天皇として即位させます。これは藤原氏の外戚政策そのものです。また摂関家との姻戚関係も結びます。

次に地方武士の組織化。これは畿内や西日本の武士を家人に組み入れ、地頭に任命したりします。これは平氏の武家的性格といえましょう。
また、天台座主明雲と急速接近し、延暦寺と結びます。

こののち平氏が滅びていく時、武士である平氏が政権のトップにのぼったことに対し期待した武士たちが、平氏の貴族化に失望したからと言われますが、考えてみれば平氏はかわいそうかなと思います。
平氏は、あれよあれよという間に政権のトップにいき、トップにいったら何をするか、どうするか考える時間もなかったのではないでしょうか。そうするとまねをするしかありません。何をまねするか?前の時代の摂関政治のまねをするしかないのではないでしょうか。
平氏のこの失敗をみているから、頼朝は、同じ轍を踏まなかったのでしょう。

「平家物語」といえば「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす おごれる人も久しからず ただ春の夜の夢のごとし たけき者もついには滅びぬ 偏に風の前の塵に同じ」という冒頭部分ですよね。中学校でこの文は暗記させられているようで、高校生はよく知っています。でも、高校の日本史の授業で使うのは、この冒頭部分ではありません。平時忠が言った「この一門にあらざらん者はみな人非人なるべし」です。

さて、この平氏の全盛は清盛一代で終わります。清盛が助けた頼朝や義経の登場となります。このあたりは鎌倉幕府の成立のスライドで説明したいと思います。
その前に、院政期の文化のスライドがはいります。


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YUMIさんこんにちは~(*^^)
このあたりになると高校生もかなり興味を示したんじゃありませんか。
不思議なのは平氏は公達といわれ、源氏は武家の棟梁といわれていることです。
かなり後年になりますが、信長も平氏を名乗ったせいか公達と表現されているのをみると、平氏の場合、公家と武家の両面を持っていたと解釈できるようにも思いますが^^

まり姫 #8m8hig/. | URL | 2012/03/04 16:46 * edit *

まり姫さんへ

まり姫さん、こんばんは。
平氏はここにも書いたように、武士ですが、貴族的な性格も強いし、
大勢公卿・殿上人にもなっているから、公達と言われるのでしょうね。
源氏は、その轍を踏まないように気をつけたのでしょう。
征夷大将軍になったのも、そのあらわれだろうし。^

YUMI #- | URL | 2012/03/04 20:56 * edit *

v-224YUMIさん こんばんは
平氏はあれよあれよという間に政権のトップに行き何をするかどうか考える時間もない・・・・・
何か今の政治 似ているように思われませんか

青い青い空 #bJeXb1Fk | URL | 2012/03/04 22:09 * edit *

青い青い空さんへ

青い青い空さん、こんばんは。
ホントそうですね。
そんなこと考えたことなかったけれど、そういわれればその通りですね。
だから民主党は自民党のまねかな。

YUMI #- | URL | 2012/03/04 22:37 * edit *
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