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退職教師の日本史授業

パワーポイントを用いて作った教材(主に日本史)を紹介します。その他、退職後の生活あれこれも。

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将門と純友が比叡山で? 

今日は、武士の登場の第3回、藤原純友の乱についてです。

武士の登場のスライドはこちらから。

インターネットエクスプローラ9以上では、レイアウトが崩れて見えるようです。その場合は、互換モード(F12を押してブラウザモードを互換モードにする)でご覧ください。

私はインターネットエクスプローラーを使用しています。グーグルクロームを使うと、スライドが一部きちんと表示されないようです。(グーグルクロームを使ってはじめてわかりました)グーグルクロームをお使いの方、またうまく表示されない方、申し訳ありません。

この教材はパワーポイントで作成しています。PPTファイルの閲覧にはPowerPoint Viewerが必要です。
ダウンロードはこちらから。

藤原純友は藤原北家の出身ですが、都での出世はできそうもなく、地方官となり伊予掾として瀬戸内にはびこる海賊を鎮圧するためにやってきました。そして都に帰らず伊予国に土着します。ところが936年頃までには逆に海賊の頭領となり]、伊予(今の愛媛県)の日振島を根拠地として周辺の海域を荒らし、瀬戸内海全域に勢力をのばすようになりました。

939年には純友は、部下に備前・播磨国を襲撃させました。940年には淡路国、讃岐国の国府を、さらに大宰府を襲撃し略奪を行いました。

朝廷は純友追討のために追捕使小野好古、源経基(清和源氏の祖)を差し向け、941年、純友の船団は追捕使の軍により壊滅させられました。純友は伊予国へ逃れましたが、捕らえられ獄死しました。

将門・純友の乱をあわせて承平・天慶の乱といいますが、この乱は、ひとつには朝廷の権威を失墜させました。朝廷・貴族はただただ驚愕するばかりで、何もできなかったのです。また貴族は武士の実力を認識せざるをえませんでした。反乱を起こしたのも武士なら、押さえたのもまた武士です。

純友は、将門ほど逸話がありません。これは、将門の方が庶民に愛されていたということでしょうか?

両乱は、時期的に同じようなときにおきましたので、都の驚愕は大変なものだったわけです。ひとつでさえ大変なのに、東と西で!!
ですから、都で中級官人として出仕していた青年時代の将門と純友が比叡山に登り、ふたりは共に乱を起こして都を奪おうと約束したとする伝説まで残っています。当時の公卿の日記にも同時期に起きた二つの乱について「謀を合わせ心を通じて」と記されているそうです。しかし、実際にはありえないのではないかと思いますが。


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YUMIさんこんにちは~(*^^)
武士といっても元をただせば下級貴族、都で巷のこともわからないで、のうのうとしている高級貴族のあわてぶりが目に浮かぶようです。
下級貴族から武士に転じた源氏や平氏はすでに先をみてたのでしょうか。

まり姫 #8m8hig/. | URL | 2012/01/22 16:24 * edit *

まり姫さんへ

まり姫さん、こんばんは。
> 武士といっても元をただせば下級貴族、都で巷のこともわからないで、のうのうとしている高級貴族のあわてぶりが目に浮かぶようです。
ホント、どんなあわてぶりだったか、想像すると笑えますね。
> 下級貴族から武士に転じた源氏や平氏はすでに先をみてたのでしょうか。
とはいえ、身分的には貴族から下に見られ、おもしろくなったのでしょうね。

YUMI #- | URL | 2012/01/22 20:06 * edit *

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# |  | 2012/01/23 20:15 * edit *
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