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退職教師の日本史授業

パワーポイントを用いて作った教材(主に日本史)を紹介します。その他、退職後の生活あれこれも。

西郷死す 

 今日は西南戦争の続きです。

 西郷以下13000人の薩摩軍は、熊本にはいり1877年2月、熊本城を包囲しました。しかし開城の説得に失敗し、力で攻め落とそうとしますが谷干城を中心とする熊本城の守りはかたかったです。薩摩軍と政府軍は熊本近郊の田原坂(たばるざか)で約半月にわたって、壮絶な死闘を繰り広げます。

 雨や霧の日も多く、両軍どろどろになっての戦いだったようです。容易に勝敗はつきませんでしたが、やがて政府軍が優勢となり、熊本にいた西郷と薩摩軍本部は退却します。しかし反攻はならず、熊本人吉から宮崎に退却します。薩摩軍は食糧にも飢え、鍋・鎌を鋳つぶして弾丸を造るありさまだったようです。

 しかし、一番の敗北の原因は、西郷ははじめから戦う意志がなく、彼をかついだ薩摩軍と意識に大きなギャップがあったからだといわれています。

 8月、和田峠越えで薩摩軍と政府軍の最期の大会戦が行われました。西郷はこのとき前線へ出て死のうとしますが果たせず。「勝敗は決し、事は終わった。各自、自由にせよ」と解散命令を全軍に出しました。

 ここまで動かずにいた西郷はこの後主導権を発揮し、残る薩摩軍600は巧妙な作戦のもと包囲を脱し、鹿児島に戻りました。西郷は不正な政治を正すという信念を天下に示すことが挙兵上京の目的であったようです。それが失敗し、あとは自分を担ぎ出した同志を故郷薩摩に戻し、武士らしく死なせてやろうと考えたようです。

 城山にこもる薩摩軍を政府軍が包囲し、砲撃10数日。9月24日、総攻撃が始まり、西郷は弾を受け、別府晋介の介錯で亡くなりました。西南戦争の終わりです。

 西郷らはこののち神風連や秋月の乱などと一緒に保守反動の士族の反乱といわれます。彼らの敗北は近代国家成立に必要だったともされました。しかし、歴史にもしもはありませんが、西郷が勝利し、政権をとれば、明治政府にみられるような官僚専制や軍備拡張という動きにはならなかったかもしれません。福沢諭吉は「先の専制者徳川幕府に反抗して倒した西郷と、後の専制者明治政府に反抗して敗れた彼も同じことだ。忠臣・逆臣の別などあるはずがない」といっていますが…



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