FC2ブログ
QLOOKアクセス解析

退職教師の日本史授業

パワーポイントを用いて作った教材(主に日本史)を紹介します。その他、退職後の生活あれこれも。

護良親王暗殺 

建武の新政

建武の新政のスライドの紹介3回目です。

建武の新政のスライドはこちらから。

インターネットエクスプローラ9以上では、レイアウトが崩れて見えるようです。その場合は、互換モード(F12を押してブラウザモードを互換モードにする)でご覧ください。

この教材はパワーポイントで作成しています。PPTファイルの閲覧にはPowerPoint Viewerが必要です。
ダウンロードはこちらから。

グーグルクロームをお使いの方は、スライドが少しおかしく見える部分があるかもしれません。すみません。

建武の新政で、護良親王(もりながしんのう又はもりよししんのう)は征夷大将軍に任じられました。しかし、足利尊氏のほか、父の後醍醐天皇と反目し、尊氏暗殺のために兵を集めたりしました。このため、征夷大将軍を解任され、皇位簒奪を企てたとして、捕らえられました。その後足利方に身柄を預けられて鎌倉へ送られ、鎌倉将軍府にあった尊氏の弟足利直義の監視下に置かれました。

翌1335年、北条時行の中先代の乱が起き、鎌倉が北条軍に奪還されると、時行に奉じられる事を警戒した直義に暗殺されました。

「太平記」では、土牢に閉じ込められたことになっています。(土牢は鎌倉宮内に復元されたものが現存)

鎌倉宮3
鎌倉宮の土牢跡

1335年、中先代の乱がおきます。これは北条時行(高時の子)が鎌倉幕府再興を図って信濃で挙兵したものです。一時は鎌倉を占拠します。鎌倉から出陣して時行軍を迎撃した足利直義をも破りました。直義は成良親王らを連れて鎌倉を逃れますが、鎌倉には先に書いた護良親王が幽閉されていましたが、鎌倉を落ちる時に護良親王を殺害させました。

これに対し足利尊氏は都より東下して鎌倉を回復しますが、尊氏は鎌倉において、乱の鎮圧に従った武士たちに勝手に恩賞を分配したりして、建武の新政政権から離反する動きを見せはじめます。

ではそのあたりからまた次回。


本日もお読みいただき、ありがとうございます。
ブログランキングに参加しています。1日1回応援のポチッをよろしくお願いいたします。

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

人気ブログランキングへ
スポンサーサイト



[edit]