QLOOKアクセス解析

退職教師の日本史授業

パワーポイントを用いて作った教材(主に日本史)を紹介します。その他、退職後の生活あれこれも。

スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

[edit]

天皇だの、院は必要なら木彫りや金の像で作り… 

建武の新政のスライドの紹介4回目です。

建武の新政のスライドはこちらから。

インターネットエクスプローラ9以上では、レイアウトが崩れて見えるようです。その場合は、互換モード(F12を押してブラウザモードを互換モードにする)でご覧ください。

この教材はパワーポイントで作成しています。PPTファイルの閲覧にはPowerPoint Viewerが必要です。
ダウンロードはこちらから。

グーグルクロームをお使いの方は、スライドが少しおかしく見える部分があるかもしれません。すみません。

室町幕府が成立しました。しかし、征夷大将軍足利尊氏ですが、彼は頼朝ほどのカリスマ性はなかったのではないかと思います。
尊氏には弟直義(ただよし)がいますが、どうもこのふたりが幕府の重要政務を分担してやっていたのではないかと思うのです。

しいていえば、軍事的な部分は尊氏が、政治的部分は直義がでしょうか。

後醍醐天皇は尊氏に敗れ吉野に逃れました。そして南朝を名乗ります。京都には尊氏の立てた北朝の天皇がいます。こうして日本でも珍しい時代ですよね、天皇がふたりという南北朝の動乱が始まります。南北朝は3代足利義満の1392年に、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に譲位する形で合一されました。

この南北朝の動乱中に、足利氏の内紛である観応の擾乱(かんのうのじょうらん)が起きます。観応の擾乱では、「尊氏の執事=高師直(こうのもろなお)(急進派)」と「尊氏の弟=直義(漸進派) 」の勢力の対立が激化し、両派の武力対決に突入しました。

先にも書きましたように足利直義は幕政を司ります。尊氏と共に「両将軍」と考えても良いのではないでしょうか。足利家の執事である高師直は、軍事指揮官として南朝勢力を掃討しました。

1347年、南朝の楠木正行(まさつら)(楠木正成の子)が京都奪還を目指して蜂起しました。直義派の細川・畠山らが派遣されてこれを討とうとしますが失敗します。かわって高師直・師泰(もろやす)兄弟が、1348年四條畷(しじょうなわて)の戦いで正行を討ち取り南朝軍を撃破しました。この勢いに乗じて南朝の本拠地吉野を落とし、南朝方は吉野の奥の賀名生(あのう)へ落ちていきます。この結果、政権内で直義の発言力が低下する一方で、師直の勢力が増大、両派の対立が一層ひどくなります。

また、足利尊氏は認知していなかった子の足利直冬(ただふゆ)がいますが、直義が直冬を養子としました。尊氏は嫡男の義詮(よしあきら)の地位を奪い得る直冬に憎しみをいだいたようです。直冬の存在が、師直派と直義派の争いから、尊氏と直義の兄弟の対立へと乱を広げていくことになります。

1349年、直義は将軍尊氏に要求し、師直は執事を罷免されますが、師直は師泰と共に逆に直義を討とうとします。直義は尊氏の邸に逃げ込みますが、師直の軍勢が尊氏邸を包囲します。禅僧夢窓疎石(むそうそせき)の仲介もあり、直義が出家し幕政から退くことを条件に、師直は包囲を解きました。

直冬は、事件を知って直義に味方するために上洛しようとしますが、師直が討伐軍を送ったため九州に敗走しました。しかし、直冬はしだいに九州・中国地方に勢力を拡大していきました。そんな中直義が京都を出奔、尊氏、高兄弟も加わり観応の擾乱がはじまります。北朝の光厳天皇による直義追討令が出されると、直義は南朝に降りました。

その後直義軍は京都に進撃、尊氏は直義との和議を図りました。高兄弟は摂津から京都への護送中に、一族と共に謀殺されました。直義は義詮の補佐として政務に復帰します。

高師直は、天皇家の権威に対して、「王(天皇)だの、院は必要なら木彫りや金の像で作り、生きているそれは流してしまえ」と発言したことが有名です。


本日もお読みいただき、ありがとうございます。
ブログランキングに参加しています。1日1回応援のポチッをよろしくお願いいたします。

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

人気ブログランキングへ
スポンサーサイト

[edit]

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。