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退職教師の日本史授業

パワーポイントを用いて作った教材(主に日本史)を紹介します。その他、退職後の生活あれこれも。

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八幡太郎は恐ろしや 

武士の登場
今日は、武士の登場6回目、後三年の役のお話です。

武士の登場のスライドはこちらから。

インターネットエクスプローラ9以上では、レイアウトが崩れて見えるようです。その場合は、互換モード(F12を押してブラウザモードを互換モードにする)でご覧ください。

私はインターネットエクスプローラーを使用しています。グーグルクロームを使うと、スライドが一部きちんと表示されないようです。(グーグルクロームを使ってはじめてわかりました)グーグルクロームをお使いの方、またうまく表示されない方、申し訳ありません。

この教材はパワーポイントで作成しています。PPTファイルの閲覧にはPowerPoint Viewerが必要です。
ダウンロードはこちらから。

清原武貞は、前九年の役が終わった後安倍氏の有力豪族であった藤原経清の妻を自らの妻としていました。この女性は安倍頼時の娘であり、経清との間に息子がいました。この子は清原武貞の養子となり、清原清衡を名乗りました。その後、清原武貞とその女性の間に子どもが生まれ、これが清原家衡です。

清原武貞のあとは真衡が継ぎますが、この真衡と家衡・清衡の間に争いがおきました。そんな頃、前九年の役の源頼義の息子源義家が陸奥守となり、陸奥国にやってきました。そんな中真衡が急死します。その後、家衡と清衡が所領をめぐって争うようになります。源義家がその内紛に介入し、妻子を殺された清原清衡の訴えを受け、源義家は清原清衡を援助します。で、最終的には源義家・清原清衡の勝利となります。

朝廷は、この戦いを義家の私戦として、これに対する褒美を拒否しました。義家は、関東から出征してきた武士たちに、私財を割いて恩賞を与えざるを得なくなりました。しかし、、このことが却って関東における源義家の名声を高め、「天下第一武勇の士」と言われるようになりました。

となると、諸国の武士は源義家に荘園を寄進するようになります。寄進は力の強い人になされるわけですから。しかし、都の朝廷や貴族はこれがおもしろくありません。で、義家に荘園を寄進することを禁止する命を出したりもします。

源義家に関しては、前九年の役の時、敗走する敵の安倍貞任を追う義家が、矢を番えながら貞任に下の句を歌いかけると、貞任は即座にその上の句を返したので、義家は感じいって武士の情けと、矢を放つのを止めたという話が「古今著聞集」に残っています。また、後三年の役の時、金沢柵包囲戦で兵糧攻めをし、城内から投降してきた女子どもを見せしめに惨殺したので、「八幡太郎は恐ろしや」と恐れられたとも言われています。

この乱ののち、清原清衡は清原氏の所領をすべて手に入れることになりました。清衡は、実父である藤原経清の姓藤原を名乗るようになります。これが奥州藤原氏の始まりです。

東北では、こののち平泉を中心にこの奥州藤原氏が栄えます。次回は、奥州藤原氏の話を。


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