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退職教師の日本史授業

パワーポイントを用いて作った教材(主に日本史)を紹介します。その他、退職後の生活あれこれも。

またまた花山法皇が 

今日も摂関政治のお話を。道長と伊周の対立のあたりから。

摂関政治のスライドはこちらから。

インターネットエクスプローラ9以上では、レイアウトが崩れて見えるようです。その場合は、互換モード(F12を押してブラウザモードを互換モードにする)でご覧ください。

この教材はパワーポイントで作成しています。PPTファイルの閲覧にはPowerPoint Viewerが必要です。
ダウンロードはこちらから。

藤原伊周が叔父道長よりも出世していたことは前回にも述べましたが、まわりはそれを良くは思っていなかったようで、皇太后詮子の関与かと思われますが、「関白は兄弟順に」という先例を作って道兼の次に道長を関白にしようとします。実際には道長がなったのは「内覧」といって、関白に準ずるような地位なのですが、ともあれ、実質的に藤原氏トップの座に王手をかけたのは藤原道長です。
藤原伊周は、悔しかったのでしょうね。996年、弟である藤原隆家と共に威嚇のつもりで夜道を歩く花山法皇に矢を放ったのです。花山法皇が、自分の好きな女の所に通って会っていると思ったわけです。花山法皇は天皇時代にも藤原氏とおもしろい関係にあった人だということは前回もお話ししました。
矢はなんと法皇の服の袖を貫通しました。威嚇どころではありません。また、法皇が通っていた女と、伊周が通っていた女は実は別人だったのです。
これを長徳の変といい、伊周は大宰権帥へ、隆家は出雲権守へ左遷されました。

こうして、道長は藤原氏の頂点に立つ氏の長者となりました。そして道長は、外戚として権力を掌握しようとします。道長には4人の娘がいます。一条天皇には既に定子(兄・道隆の娘)が中宮としていたのにもかかわらず、自分の娘である彰子を中宮としました。この彰子に仕えたのが源氏物語の作者紫式部です。
三条天皇には妍子を、後一条天皇には威子を嫁し、また嬉子は後朱雀天皇東宮時代の妃とします。(嬉子はその後早世します)
この世の春ですよね。こうした道長の栄華は、藤原実資の日記小右記に見える道長の歌、「此世をば我世とぞ思ふ望月のかけたることも無しと思へば」に象徴されています。

そんな中、道長は62歳で亡くなりますが、道長は晩年、急性で激痛のある化膿性炎症をわずらっていました。腫れ物ができ、死の直前、背中の腫れが乳房ほどとなり、医師が腫れた部分に針をさしたが、血膿が少し出ただけで、苦しみもがき、息を引き取ったとも言われています。

道長のあとを継いだのは、息子の頼通です。彼は後一条・後朱雀・後冷泉の3代の天皇の叔父として、摂政・関白 として52年間勢いをふるい、道長とともに藤原氏の全盛期をきずきました。しかし、彼の不運は娘の寛子が天皇の皇子を生むことがなかったことです。彼は有名な平等院の造営を行っていますが、この後藤原氏は衰退していきます。そこで後三条天皇の登場となるわけです。


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