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退職教師の日本史授業

パワーポイントを用いて作った教材(主に日本史)を紹介します。その他、退職後の生活あれこれも。

伴善男は本当に真犯人か? 

前回に引き続き、今日は藤原氏の他氏排斥、応天門の変のお話です。

他氏排斥のスライドはこちらから。

インターネットエクスプローラ9以上では、レイアウトが崩れて見えるようです。その場合は、互換モード(F12を押してブラウザモードを互換モードにする)でご覧ください。

この教材はパワーポイントで作成しています。PPTファイルの閲覧にはPowerPoint Viewerが必要です。
ダウンロードはこちらから。

866年、清和天皇のもとで、藤原良房は正式に摂政になります。この866年、都にある応天門から火の手があがり全焼してしまう火事が起こりました。火事と言ってしまえばそれまでですが、天皇が住んでいるところが火事になったんですから、もしこれが放火だったとしたらたいへんな罪になります。
数日が過ぎたある日、大納言伴善男が応天門の火事は放火で、犯人は左大臣源信であると訴えました。応天門は大伴氏(伴氏)が造営したもので、源信が伴氏をのろって火をつけたというのです。源信は無罪を主張します。太政大臣藤原良房は「無罪を主張する者をむやみに処罰すべきでない」と清和天皇に訴え、源信は無実となります。結局事件の真相がわからないまましばらくたち、「応天門放火の真犯人は大納言の伴善男です」と申し出る者が現れました。告発した本人が逆に真犯人だったわけです。
藤原良房伴善男を放火犯と断定し、息子中庸ともども配流とします。また紀豊城、紀夏井等も配流となり、他にも伴氏・紀氏一族が多数配流となりました。処分から程無く源信・藤原良相の左右両大臣が急死します。良房は、藤原氏繁栄の基礎を築いていきます。

このことは、「伴大納言絵詞」にもかかれています。

しかし、本当に伴善男が犯人でしょうか。真相は闇の中ですね。ただ、この事件も古代からの有力貴族伴氏・紀氏を追い落とす絶好の機会だったことは確かなようで、良房の他氏排斥事件のひとつと言われています。

清和天皇は9歳の貞明親王(陽成天皇)に譲位し、出家します。その後、絶食を伴う激しい苦行を行いました。その結果病を発し、亡くなります。
陽成天皇は「殺人を非常に好み、囚人を騙して裸で塔に登らせそれを矢で射殺したり、女官を縄で縛って池に投げ込み溺死させたり」と三代実録に書かれているように性格が荒く、藤原基経(藤原良房の養子)によって天皇の位を降ろされています。ただ、これは天皇を廃位した基経の罪を抹消するための作為だともいわれていますが。

陽成天皇の次の光孝天皇は、藤原基経に天皇の全てに相談相手として関与できる役、すなわち実質上の関白の地位を与えます。884年のことです。 

光孝天皇の次は、宇多天皇の登場ですが、この時に阿衡の紛議がおきます。阿衡の紛議は、また次回。

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