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退職教師の日本史授業

パワーポイントを用いて作った教材(主に日本史)を紹介します。その他、退職後の生活あれこれも。

藤原良房の陰謀 

今日は摂関政治前半、藤原氏の他氏排斥に関する教材の紹介です。

阿衡事件

他氏排斥のスライドはこちらから。

インターネットエクスプローラ9以上では、レイアウトが崩れて見えるようです。その場合は、互換モード(F12を押してブラウザモードを互換モードにする)でご覧ください。

この教材はパワーポイントで作成しています。PPTファイルの閲覧にはPowerPoint Viewerが必要です。
ダウンロードはこちらから。

藤原氏は、不比等の死後その4人の息子が力を得ますが、天然痘により4人とも死去したことは奈良時代のところでお話ししました。その4人のなかの房前の系統を藤原北家といいますが、平安初期嵯峨天皇のところで登場した藤原冬嗣がその北家です。冬嗣は嵯峨天皇の親任が厚かったから蔵人頭になったわけで、必然的に大きな力を持つようになり、それは息子にも引き継がれました。冬嗣の子良房のあたりから、藤原氏は娘を入内させ、天皇の外戚となり、また一方でライバルの貴族たちを策略をめぐらせて蹴落としていきます。これを他氏排斥といいます。
承和の変から安和の変までこの他氏排斥は続きます。今日のスライドはこのあたりの紹介です。

薬子の変の後、嵯峨天皇の皇太弟大伴親王は淳和天皇として即位し、皇太子に嵯峨天皇の息子正良親王が選ばれます。その後、淳和天皇も引退。天皇の座は正良親王に移り仁明天皇が誕生します。皇太子は淳和天皇の息子恒貞親王が選ばれます。このような皇位継承の順番でもわかるとおり、当時の皇位継承のパターンは「兄」→「弟」→「兄の息子」→「弟の息子」の順になっていました。つまり「嵯峨(兄)」→「淳和(弟)」→「仁明(嵯峨の子)」→「恒貞親王(淳和の子)」という感じです。しかし、この慣例は、天皇の親戚として権勢をふるう藤原氏にとっては都合が悪い慣例ということになります。これはなんとかしなければと藤原良房は自分の娘順子と仁明天皇の間に生まれた道康親王を皇太子にしたいと考え、いろいろと作戦を練ります。このことを察知した恒貞親王は将来的に自分の身が危うくなることを予想して仁明天皇に対して皇太子の辞退を申し出ますがこれといった理由もないのに皇太子の座を降ろせるわけがありません。この藤原良房の動きを察知した恒貞親王の側近伴健岑は近々国家に内乱が起こるに違いないと考え、難を避けるために恒貞親王を都から東国へ脱出させようと計画しますが、伴健岑橘逸勢をはじめとする役人達が謀反の罪で逮捕されてしまいます。これを知った恒貞親王は仁明天皇に対してすぐさま皇太子の辞表を提出しますが、皇太子は無罪とのことで辞表は慰留されてしまいます。ところが1週間後、恒貞親王は謀反に関係ありとして皇太子を廃する詔が発せられ、恒貞親王に関係する者は流罪または処刑され、新しい皇太子として道康親王が選ばれます。この事件によって「兄」→「弟」→「兄の息子」→「弟の息子」という皇位継承の慣例は崩され、これ以降は「親」→「子」の直系に継承されていくことになります。また藤原良房がますます権勢をふるうようになります。この事件は藤原氏にとって都合の悪い慣例を廃し、同時に藤原氏以外の有力貴族「伴氏」「橘氏」などを排斥するために行った藤原良房の陰謀であろうとの説が有力です。これを承和の変といいます。

ちなみに「伴健岑」の家柄「伴氏」ですが、これは古代からの有力貴族「大伴氏」の末裔です。淳和天皇(大伴親王)が即位するときに同じ名前とは恐れ多いとの理由で「大伴」から「伴」に名字を変えています。

承和の変(842年)により皇太子となった道康親王は即位して文徳天皇となり、皇太子には息子で生後わずか9ヶ月の惟仁親王が選ばれます。それから間もなくの858年、病弱であった文徳天皇は亡くなり、9歳の惟仁親王が清和天皇として即位します。天皇が幼少であることから藤原良房摂政(天皇が病気若しくは幼少の時に政務を代行する役)を担当し(正式に任じられたのは866年)、これが人臣で初の摂政ということになります。

正式に摂政に任じられた866年、次の他氏排斥事件応天門の変がおこります。応天門の変からまた次回。

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