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退職教師の日本史授業

パワーポイントを用いて作った教材(主に日本史)を紹介します。その他、退職後の生活あれこれも。

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苦労も知らず、醍醐の花見 

秀吉

 今日は豊臣秀吉のスライドの紹介です。

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 この教材はパワーポイントで作成しています。PPTファイルの閲覧にはPowerPoint Viewerが必要です。ダウンロードはこちらから。

 今日は慶長の役の話です。朝鮮の宗主国である明のもたらした国書は、秀吉を日本国王に封ずとのみ書かれていて、とうてい秀吉の意にかなうものではありませんでしたので、再出兵となります。1597年慶長の役です。将兵14万余りを派兵しますが、当初より戦局は悪化します。戦場は半島南部に限定、朝鮮義民軍・明軍の激しい抵抗、日本水軍の劣勢これは李舜臣の率いる朝鮮水軍の抵抗によります。補給路断絶による食料不足、厭戦気分の広がりなどが原因です。朝鮮出陣勢と秀吉や石田三成らの溝も大きかったと言われます。飢餓地獄のような朝鮮出陣軍をしりめに、秀吉は醍醐の花見を行ったりしているのですから。1598年8月、秀吉が伏見城で死去すると、全軍撤退となります。

 蔚山、泗川、順天への攻勢を退けた日本軍でしたが、既に秀吉は8月に死去しており、戦争を継続する意義は失われていました。そこで10月15日、秀吉の死は秘匿されたまま五大老による帰国命令が発令されました。

 この戦争では首よりも鼻が戦功の証とされ、多くの鼻が塩漬けにされ、日本に送られました。これを埋めて築かれたのが京都方広寺そばの耳塚です。

 当時の朝鮮半島は、陶磁器の技術も日本よりも進んでいたため、多くの陶工たちが無理やり連れ帰られました。萩焼や有田焼、薩摩焼などの祖はこの時連れ帰られた陶工たちです。

 この戦争では掠奪・狼藉・暴行が多数行われました。兵士たちは捕えた朝鮮の男女や子供を、日本に、まるで土産物のようにおくってきました。奴隷として売られた人々も多かったようです。秀吉も、大名に対し、連れ帰ったものの中に細工を得意とするものなどがいたら進上するようにと言っています。こうした掠奪は、日本国内の戦場で行われていたことが、そのまま朝鮮の戦場に持ち出されたものだということです。
 
 秀吉は伊藤博文と並び、朝鮮半島の人々から忌み嫌われている日本人だという話は有名ですが、それも仕方がないことかと思います。



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秀吉の国際感覚欠如 

秀吉

 今日は豊臣秀吉のスライドの紹介です。

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 今日は秀吉の朝鮮出兵についてです。
 前にも書きましたが、秀吉は貿易に対しては、積極的な貿易振興策をとります。その一方で、朝鮮に対し入貢の要求をします。これは秀吉の国際感覚や地理感覚の欠如といわれています。九州遠征中に、対馬の宗氏を通じて朝鮮に入貢と征明の道案内を要求します。

 朝鮮出兵の理由ですが、織田信長の遺志を継いだとも言われています。信長も征明構想を述べていましたから。しかし、先にも書きましたが、朝鮮・明を征服するというのは秀吉の国際感覚・地理感覚の欠如というしかありません。朝鮮は対馬の宗氏に従属しているという誤った認識があったようです。国内戦争がなくなって実力を発揮する場所がなくなった大名のガス抜きという説もあります。また、大名ではなく掠奪を生きる手段としてきた雑兵たちの戦場でのエネルギーを朝鮮の戦場に放出したのだという説もあります。

 秀吉は朝鮮だけでなく、東南アジア諸国にも服属せよ、従わなければ討伐するぞという脅し文句でのぞみます。

 経過としては、 1587年九州遠征の途中、対馬の宗氏を通じて朝鮮に入貢と征明の道案内を要求しますが、拒否されます。1591には人掃令が出されます。これは朝鮮出兵動員のための人口調査だと言われています。

 文禄の役について。1592年、秀吉は肥前名護屋城に本営を設営します。そして15万余りの将兵を派兵します。第1軍は小西行長軍、こちらは対馬の宗氏とともに朝鮮を説得するとして先に出発します。しかしそれは無理な話です。第2軍以下が出発します。釜山に上陸し、漢城(現ソウル)・平壌を制圧し、 さらに北上します。加藤清正は豆満江に到達します。秀吉は喜び自ら渡海しようと心がはやりました。明征服がすぐにも実現するように思ったのでしょう。しかし朝鮮義民軍の抵抗や李瞬臣率いる水軍の活躍、日本水軍の劣勢、戦病者の増加、厭戦気分の増大などで戦局は悪化し、和平交渉へ持ち込みます。ここは小西行長、宗氏らの画策によります。小西行長の和平交渉は秀吉の意向を受けたものではなく交渉は決裂します。日本・明双方の講和担当者は穏便に講和を行うためにそれぞれ偽りの報告をしたのです。秀吉は来朝した明使節を謁見しますが、自分の要求が全く受け入れられていないのを知り激怒し、使者を追い返し朝鮮への再度出兵を決定します。



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殉教 

秀吉

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 今日は26聖人の大殉教についてです。
 1587年豊臣秀吉はバテレン追放令を発布しました。しかし秀吉は貿易の利は認めていたため、追放令も中途半端なもので、キリシタンに対する大規模な迫害は行われませんでした。

 しかし、1596年サン=フェリペ号事件をきっかけに、秀吉はキリシタンに対する迫害を行うようになります。イエズス会の後に来日したフランシスコ会の活発な活動が禁教令に対して挑発的であると考えます。大坂と京都でフランシスコ会員7名と信徒14名、イエズス会関係者3名の合計24名が捕縛されました。

 24名は、京都一条戻り橋で左の耳たぶを切り落とされて、市中引き回しになりました。その後、長崎で処刑せよという命令を受けて一行は大坂を出発、歩いて長崎へ向かいました。また、道中でイエズス会員の世話をするよう依頼され付き添っていたペトロ助四郎と、同じようにフランシスコ会員の世話をしていた伊勢の大工フランシスコも捕縛されました。

 処刑の責任者は一行の中に12歳の少年ルドビコ茨木がいるのを見て気の毒に思い、信仰を捨てることを条件に助けようとしましたが、ルドビコはこの申し出を断りました。26人は通常の刑場でなく、長崎の西坂の丘の上で処刑されることに決まりました。長崎市内は混乱を避けるため外出禁止令が出されていましたが、4000人を超える群衆がそこへ集まってきました。一行は西坂の丘で殉教しました。これが日本でのキリシタン殉教の最初になります。

 26人のうち、日本人は20名、スペイン人が4名、メキシコ人、ポルトガル人がそれぞれ1名であり、すべて男性です。

 サンフェリペ号事件ですが、この時に積荷を没収された腹いせに、スペイン人船員が、「スペインは領土征服の第一歩として宣教師を送り込む」と言ったのを秀吉が聞き、26聖人殉教を引き起こしたといわれています。しかしその真偽は定かではないようです。


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高山右近の棄教 

秀吉

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 今日は秀吉の外交について。
 一口で言えば、キリスト教は禁止、貿易は振興ということでしょうか。でも、これではキリスト教禁教は徹底しませんよね。

 1587年6月18日、大名・家臣の入信を許可制とします。これにより秀吉の側近の黒田孝高は棄教するなどキリシタン大名には苦しい状況となります。しかし高山右近は信仰を守ることと引き換えに領地と財産をすべて捨てることを選びました。その内容ですが、大名やその家臣がキリスト教信者になる場合は許可制としますが、ここでは一般庶民のキリスト教信仰は容認します、

 次に1587年6月19日に出されたバテレン追放令です。内容は、宣教師(バテレン)の国外追放(20日以内の退去)、貿易は許可制とするなどです。追放令におけるバテレンの追放理由ですが、キリシタン勢力の増大が統一支配の障害になる 、キリスト教は邪法などです。しかしこの法令でも黒船(ポルトガルの貿易船)の商売は保障する、仏法の妨げをしない者は商人でも誰でもキリシタン国からきていいとしています。
 
 大村領の長崎がイエズス会に寄進されたことに対し、長崎は秀吉が没収して直轄領としました。これは秀吉のねらった貿易独占を一歩すすめたと思います。また、この法令で、宣教師が大名・領主を信者として神社仏閣を破壊させているということに対し、大名の所領は永久に与えたものではなく、秀吉が改易や転封も行えるのだから天下からの法度を守れと言っていることは注目すべきところだと思います。

 そんななか26聖人の大殉教がおこります。ではそのあたりからまた次回。


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身分統制令 

秀吉

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 秀吉の政策、今日は身分統制令です。
 身分統制令は1591年に出されます。内容は、①武家奉公人(侍、中間、小者ら)の百姓・町人化の禁止(第1条)、②百姓の商工業従事禁止(第2条)、③主人に許しを得ないで出奔した侍・小者らを抱えてはならない(第3条)です。この法令の目的は、身分の固定すなわち兵農分離・農民の土地への緊縛化、朝鮮出兵を控えて武家奉公人と年貢を確保する意図があったとされています。士農工商という身分制度の確立の画期となる政策と位置づけられています。しかし、次のような側面もあるようです。武家奉公人の牢人化と都市への流入、また百姓の耕作放棄と都市への流入が多く、きわめて深刻な問題であり、その解決策として出されたということです。

 1592年には人掃令が出されます。これは全国の戸口調査です。内容は武家奉公人・町人・百姓の職業別戸数・人数を調査するというものです。その目的は朝鮮出兵のための武家奉公人や人夫確保のためと言われていますが、結果として兵農分離を完成させることになります。


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