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退職教師の日本史授業

パワーポイントを用いて作った教材(主に日本史)を紹介します。その他、退職後の生活あれこれも。

村田清風も荒療治 

文化・文政時代

 今日は文化・文政時代のスライドの紹介です。

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 この教材はパワーポイントで作成しています。PPTファイルの閲覧にはPowerPoint Viewerが必要です。ダウンロードはこちらから。

 今日は長州藩の改革から。長州藩も薩摩藩に負けず劣らず深刻な財政危機でした。藩主毛利敬親に登用された村田清風は、藩士の謝金を肩代わりし、債権者の商人に対し37か年元金返済を据え置くという踏み倒しに近い荒療治を行いました。また下関に越荷方(こしにかた)(藩営の金融兼倉庫業者)を設置しました。この越荷方の営業成績は良かったようですが、商人には評判が悪く、清風は退陣することとなったようです。

 次に肥前藩です。ここでは藩主鍋島直正が率先して財政改革を行いました。産業を奨励し、陶器や石炭の専売を行い、佐賀商会を長崎においてオランダとの直接交易を実現したそうです。巨利をあげ、そのお金で西洋の武器や蒸気船を買い込み、反射炉も築造します。


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負債は踏み倒す 

文化・文政時代

 今日は文化・文政時代のスライドの紹介です。

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 今日はまずは土佐藩の改革についてです。藩主の座に就いた山内豊信(容堂)は門閥・旧臣による藩政を嫌い、革新派グループ「新おこぜ組」の中心人物吉田東洋を起用しました。1853年、東洋を新たに設けた仕置役(参政職)に任じ、家老を押しのけて藩政改革を断行しました。翌1854年、東洋は山内家姻戚に当たる旗本松下嘉兵衛との間にいさかいをおこし失脚、謹慎の身となりました。しかし3年後の1857年、東洋を再び起用し、東洋は後に藩の参政となる後藤象二郎や福岡孝弟らを起用しました。豊信は福井藩主松平春嶽、宇和島藩主伊達宗城、薩摩藩主島津斉彬らとも交流を持ち、幕末の四賢侯と称されました。彼らは幕政にも積極的に口を挟み、老中阿部正弘に幕政改革を訴えました。

 しかし東洋の改革は門閥打破・殖産興業・軍制改革・開国貿易等、富国強兵を目的とした革新的な改革でしたので、保守層やまた尊皇攘夷を唱える土佐勤王党とのあいだに政治的対立を生み、1862年土佐勤王党によって暗殺されました。

 次に薩摩藩。薩摩藩は1820年代には500万両という天文学的な数字の借財がありました。調所広郷(ずしょひろさと)は「負債は踏み倒す、新たに国産品を開発して増収を図る」という方針で改革に着手しました。前者に対しては債権者が大騒ぎをし、裁判沙汰にもなりましたが、調所は「私を殺すなりなんなりとしてくれ」と開き直り、また裏で幕閣に手をまわし、結局は承知させたそうです。

 国産品はなんといっても奄美の黒糖です。黒糖の専売制が実施されました。調所はこの他琉球を隠れ蓑とする密貿易にも手を染めっていたとか。



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自らも粥を食して 

文化・文政時代

 今日は文化・文政時代のスライドの紹介です。

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 江戸時代、諸藩は財政窮乏に苦しみます。その原因は参勤交代費用の増大が大きいでしょうか。参勤交代の道中費用もそうですし、江戸藩邸の維持費用も大変です。もっとも参勤交代自体、大名を経済的に抑えるのが目的なわけですから、そういう意味では幕府は成功したわけです。

 また年貢以外の財源に乏しい、貨幣の鋳造権なし、鉱山からの収入なしなどもあげあれます。貨幣鋳造権は幕府のみ、また良質な鉱山はすべて幕府が独占しています。

 そうした各藩での財政状況をみてみましょう。家臣の俸禄の一部を借り上げるのを借知といいます。福井藩での始まりは17世紀半ば、のちにもしばしば実施され、江戸後期には恒常的なものとなります。借財。小浜藩では、1770年11万両、1795年には24万両、1828年には30万両とも40万両とも、1871年は38万両に。福井藩では1836年90万両、大野藩では1833年9万両、鯖江藩では1858年18万両にのぼります。

 こうした状況の中、各藩は財政再建のため藩政改革を行います。寛政期、東北諸藩が中心となって藩政改革が行われました。米沢藩、秋田藩などです。これは藩主自身が改革の指揮をとりました。米沢藩の上杉治憲、秋田藩の佐竹義和などが有名です。天保期は西南雄藩です。これらの藩政改革は成功し、これら西南雄藩が明治維新の原動力となりました。薩摩藩、長州藩、佐賀藩などです。これらの藩は下級武士を登用し改革を行いました。薩摩の調所広郷、長州の村田清風などです。

 米沢の上杉治憲(鷹山)の改革です。彼は先代任命の家老らと対立しながら、1500両であった江戸仕切料(江戸での生活費)を209両余りに減額し、奥女中を50人から9人に減らすなどの倹約を行って、土を耕し帰農を奨励し、作物を育てるなどの民政事業を行いました。天明年間には凶作や浅間山噴火などから大きくなった天明の大飢饉の最中で、東北地方を中心に餓死者が多発していましたたが、治憲は非常食の普及や藩士・農民へ倹約の奨励など対策に努め、自らも粥を食して倹約を行いました。また曾祖父綱憲(4代藩主)が創設し後に閉鎖された学問所を藩校興譲館として再興させ、藩士・農民など身分を問わず学問を学ばせました。これらの施策で破綻寸前の藩財政は立ち直り、次々代の斉定時代には借債を完済しました。

 一昨年、米沢に旅をしました。米沢は上杉の領地ですが、何といっても鷹山の街という印象を受けました。



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幕府が一括管理 

文化・文政時代

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 前回三方領地替えの話でしたので、その関連で今日は上知令についてです。
 老中水野忠邦は、日本近海に外国船がたびたび出没するようになり、日本にも外国が攻めてくることもあるのではないかと考えました。江戸、大坂はそれぞれ政治・経済の中心地です。この近辺に外国が攻めてきたら大変です。

 しかし江戸・大坂十里四方は、幕府領(天領)、大名領、旗本領が入り組んでいました。なので大名や旗本には江戸・大坂十里四方に該当する領地を幕府に返上させ、ここを天領とし。大名や旗本にはかわりの領地を支給するという命令を出そうと考えます。江戸・大坂十里四方は幕府が管理するようにするわけです。

 しかし、江戸大坂十里四方に領地を持つ大名旗本らは大反対をします。老中土井利位(どいとしつら)は本領は下総国古河ですが、近畿にも飛び地を持っていました。なのでこの上知令に反対します。

 上知令反対派はこの土井を担いでその撤回と水野忠邦の免職に動き出します。水野の腹心の部下鳥居耀蔵はここで土井派に寝返り、水野を裏切ります。

 結局土井のもと上知令撤回の命令が出され、忠邦は老中免職となり、上知令とともに天保の改革は終わりを迎えます。




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三方領地替え 

文化・文政時代

 今日は文化・文政時代のスライドの紹介です。

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 今日は三方領地替えについてです。
 先日将軍家斉の子だくさんの話を書きましたが、川越藩もその家斉の子を藩主として迎えています。川越藩はそれを利用し、川越から旧領の姫路への転封願いを出します。しかし、姫路藩の大反対にあい、その件は頓挫します。しかし、その後幕府は川越藩を出羽庄内藩へ、庄内藩を越後長岡藩へ、長岡藩を武州川越藩へそれぞれ移す三方領地替えを命じました。

 川越藩にとって、最初の希望とは違いますが、庄内は水田がひらけ、また船の出入りの多い酒田港をかかえ、これは望むところです。しかしこの三方領地替えには庄内藩の農民たちが反対を唱えます。農民たちは表向きは領主酒井氏の善政を慕ってと言いますが、実際は新領主の過酷な収奪を怖れたものでしょう。川越藩は過酷な収奪で有名だったようです。これに商人たちも後押しをします。

 この反対運動が世の注目を集めます。外様大名や水戸藩も幕府に反対を申し入れます。そんな中家斉と川越藩の藩主が死亡。幕府は三方領地替えの中止を命じます。

 幕府がいったん出した転封の命令が、農民の反対、他の大名たちの反対で覆るとは、前代未聞のことです。将軍が大名を動かすこともできない、幕藩体制はおおきく崩れはじめました。



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