今日は文化・文政時代のスライドの紹介です。
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ダウンロードはこちらから。 江戸時代、諸藩は財政窮乏に苦しみます。その原因は参勤交代費用の増大が大きいでしょうか。参勤交代の道中費用もそうですし、江戸藩邸の維持費用も大変です。もっとも参勤交代自体、大名を経済的に抑えるのが目的なわけですから、そういう意味では幕府は成功したわけです。
また年貢以外の財源に乏しい、貨幣の鋳造権なし、鉱山からの収入なしなどもあげあれます。貨幣鋳造権は幕府のみ、また良質な鉱山はすべて幕府が独占しています。
そうした各藩での財政状況をみてみましょう。家臣の俸禄の一部を借り上げるのを借知といいます。福井藩での始まりは17世紀半ば、のちにもしばしば実施され、江戸後期には恒常的なものとなります。借財。小浜藩では、1770年11万両、1795年には24万両、1828年には30万両とも40万両とも、1871年は38万両に。福井藩では1836年90万両、大野藩では1833年9万両、鯖江藩では1858年18万両にのぼります。
こうした状況の中、各藩は財政再建のため藩政改革を行います。寛政期、東北諸藩が中心となって藩政改革が行われました。米沢藩、秋田藩などです。これは藩主自身が改革の指揮をとりました。米沢藩の上杉治憲、秋田藩の佐竹義和などが有名です。天保期は西南雄藩です。これらの藩政改革は成功し、これら西南雄藩が明治維新の原動力となりました。薩摩藩、長州藩、佐賀藩などです。これらの藩は下級武士を登用し改革を行いました。薩摩の調所広郷、長州の村田清風などです。
米沢の上杉治憲(鷹山)の改革です。彼は先代任命の家老らと対立しながら、1500両であった江戸仕切料(江戸での生活費)を209両余りに減額し、奥女中を50人から9人に減らすなどの倹約を行って、土を耕し帰農を奨励し、作物を育てるなどの民政事業を行いました。天明年間には凶作や浅間山噴火などから大きくなった天明の大飢饉の最中で、東北地方を中心に餓死者が多発していましたたが、治憲は非常食の普及や藩士・農民へ倹約の奨励など対策に努め、自らも粥を食して倹約を行いました。また曾祖父綱憲(4代藩主)が創設し後に閉鎖された学問所を藩校興譲館として再興させ、藩士・農民など身分を問わず学問を学ばせました。これらの施策で破綻寸前の藩財政は立ち直り、次々代の斉定時代には借債を完済しました。
一昨年、米沢に旅をしました。米沢は上杉の領地ですが、何といっても鷹山の街という印象を受けました。
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