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退職教師の日本史授業

パワーポイントを用いて作った教材(主に日本史)を紹介します。その他、退職後の生活あれこれも。

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Boys, be ambitious 

 北海道の開拓は、お雇いアメリカ人に負うところが大きかったようです。のちに北海道畜産の父と呼ばれるダンは、アメリカから牛140頭と緬羊180頭を連れて来日し、牧場を開き酪農を指導しました。

 「ボーイズ・ビー・アンビシャス」で有名な札幌農学校のクラークは、わずか8か月の在任でしたが、キリスト教に基づく教育を施して強い感化を残し、離日後に入学した2期生から、内村鑑三や新渡戸稲造らがでました。

 北海道ではじめて、日本で3番目の鉄道はアメリカ人クロフォードと日本人技師の協力で、1882年までに手宮(小樽西部)〜札幌〜幌内が開通しました。小樽は石狩炭田の石炭積み出しで港に発展しました。

 蝦夷地の屯田兵は、失職士族の救済と北辺防衛を兼ねていますが、札幌郊外の琴似兵村などに入植を開始した屯田兵とその家族は、1882年までに509戸、2442人にのぼりました。

 開拓の動脈となる道路の開削は、囚人労働に多くを負いました。樺戸・空知に集治監が置かれ、囚人を開墾に従事させました。道路工事のため網走分監も設けられましたが、悪条件下の重労働は、幾多の悲劇を生みました。

 囚人たちの重労働は険しい地形と熊との戦いだったようです。道央とオホーツク沿岸を結ぶ道路の開削工事が、千人を超える囚人により昼夜兼行で強行されました。逃亡を防ぐため囚人は二人ずつ鉄の鎖でつながれながらの重労働でした。

 工事現場が山中深く移動するにつれ食料運搬がうまく行かなくなり栄養失調やケガなどで死亡者が続出しました。あまりの苦痛に耐え切れず逃亡を企てて看守に抵抗しようとした者は、その場で斬り殺されました。死んだ囚人たちは、現場に埋葬され目印に鎖を墓標のそばに置いたと言い伝えられ、それから囚人たちの墓を「鎖塚」と呼ぶようになったそうです。



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旧土人保護法 

 北海道の歴史を語る上で絶対に触れておきたいのが、「北海道旧土人保護法」です。

 明治時代になると、北海道への移住者が増加してきました。開拓使や北海道庁は、先住していたアイヌの人たちに一部の地域で農業の奨励や教育・医療などの施策をおこなってきましたが十分ではなく、次第に生活に困窮する人たちが増えてきました。このため、政府は1899年に「北海道旧土人保護法」を制定しました。これは、アイヌの人たちを日本国民に同化させることを目的に、土地を付与して農業を奨励することをはじめ、医療、生活扶助、教育などの保護対策をおこなうものでした。旧土人とは1878年の開拓使の達によって統一されたアイヌの人たちに対する呼称です。農業に従事しようとするアイヌの人たちに対して1万5000坪(5ha)以内の土地を無償下付できること、ただし売買・譲渡・質入れの禁止など所有権に制限を加えること、アイヌの人たちの共有財産その他の財源によって補助や救恤を行うこと、アイヌの集落をなした場所に小学校を設置できることなどが法律の骨子です。しかし、和人の移住者に大量の土地を配分したあとで、新たに付与する良好な土地は少なく、付与された土地もその多くは開墾できずに没収されたり、戦後の農地改革では他人に貸していた土地が強制買収されたりしました。(旧土人保護法に関する説明は、北海道庁のHPの記載を参考にしました)

 だいたい「旧土人」とはなんたる言い方。これだけでも日本政府の人権意識のお粗末さがわかりますが、もっとお粗末だと思うのは、この法律が戦後も生き続けたことです。「旧土人保護法」は戦後も法律として効力をもち続けました。このうち、実際に機能していたのは、付与された土地を他人に譲渡する際に知事の許可を必要としたことと、共有財産を知事が管理することの規定でした。また、1934年に制定され、旭川市における土地の処分について定めた「旭川市旧土人保護地処分法」も、土地の譲渡について旧土人保護法の規定を準用することを定めたことだけが機能していました。1934年に制定された法律でも旧土人ですよ…
 
 この二つの法律、廃止されたのは1997年、アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律の施行に伴いです。1997年ですよ。もう言葉もありません。自分が高校生の時には、この法律を授業で聞いた記憶はないのです。ですから、はじめて知ったのは教師になってからかな。ショックでしたね。



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土方歳三戦死 

函館の思い出5

 1868年戊辰戦争がおこります。旧幕府軍の一部は江戸を脱して各地で戦い続け、旧幕府海軍の副総裁であった榎本武揚も艦隊を率いて江戸湾を脱し、陸軍をのせて蝦夷地へ渡り、五稜郭を本拠地としました。彼らは同年12月に選挙による仮の政権を樹立。徳川家臣による蝦夷地開拓の許可を政府に求めましたが、明治政府は翌年3月、軍隊を派遣して旧幕府脱走軍への攻撃を開始、箱館戦争がはじまりました。

 旧幕府軍は圧倒的な戦力で進攻してくる政府軍により五稜郭へ追い詰められ、土方歳三らの歴戦の面々も相次いで戦死し、旧幕府軍は降伏。幕末の動乱は終結しました。

 もう少し詳しく。1868年10月20日、箱館から45キロほど北にある鷲ノ木の海岸に、旧幕府軍が上陸しました。彼らは五稜郭を目指します。五稜郭にある新政府の役所「箱館府」は、守備隊を派遣して箱館へせまる旧幕府軍を攻撃しますが、戦いに慣れている旧幕府軍に蹴散らされてしまいます。榎本武揚を先頭に五稜郭に入場します。

 箱館を占領した旧幕府軍は松前藩に平和共存を提案しますが拒否され、陸軍を派遣し松前を占領します。松前を攻撃する陸軍を支援するために出撃した旧幕府の軍艦開陽は、江差の港で座礁してしまいます。土方はそれを見て、言葉もなく立ち尽くします。

 開陽を失いながらも松前藩を破り、蝦夷地を手に入れた旧幕府軍は、箱館港で101発の大砲を撃って勝利を祝いました。彼らは選挙によって、榎本を総裁とする仮の政権を樹立しました。

 1869年3月、明治新政府軍の大部隊が日本海側の乙部に上陸しました。箱館への最短ルートである江差山道では、土方率いる部隊が新政府軍を迎え撃ち、激しい銃撃戦で撃退しましたが、新政府軍は増援部隊を加え、五稜郭へ迫ります。

 1869年5月11日、箱館と五稜郭を包囲した新政府軍は、総攻撃を開始しました。箱館山裏側の絶壁を登った新政府軍の奇襲部隊により、箱館は占領されます。土方はこれを知り箱館の奪回に向かいますが、銃弾をうけて戦死しました。

 1869年5月17日、榎本ら旧幕府軍幹部は新政府軍の陣地におもむき、降伏します。翌日彼らは新政府軍に五稜郭を明け渡し、箱館戦争は集結しました。

 写真は五稜郭公園にある箱館奉行所あとです。前には榎本さんなどの扮装をした人が。

 昨日と同じく、「五稜郭歴史回廊」より。



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じっと手を見る 

函館の思い出4

 五稜郭タワーでは、ミニチュアの人形で箱館開港から箱館戦争までの歴史を説明しています。写真は五稜郭入場の場面です。ガラス越しなので画像が良くないところはお許しください。

 1854年江戸幕府は鎖国を廃止し、日米和親条約を結びました。開港場に決まった箱館の調査のために艦隊を率いてやってきたペリーと、幕府から応接役を命じられた松前藩の家老がアメリカの軍艦上で対面しました。

 開港場となった箱館には、外国の水兵や船乗りがやってきます。彼らは商店の品物をお土産として買い求め、八百屋で買ったキュウリやナスを生でかじったり、木魚を叩きながら踊ったりする水兵もいたそうです。

 江戸幕府が箱館と蝦夷地をおさめるために任命した箱館奉行は、開拓や産業の育成を目指すとともに、箱館の防備強化も計画します。蘭学者武田斐三郎が、ヨーロッパの城郭都市をモデルに考案した新しい要塞の設計図を奉行に提出します。

 1857年五稜郭の建設工事が始まりました。日本各地から職人や労働者が集まり、7年後の1864年に完成しました。

 以上五稜郭タワーの説明パンフレット「五稜郭歴史回廊」より。

 函館戦争の部分は、また次回。

函館の思い出6

 これは五稜郭の近くでみつけたオブジェです。タイトルは「じっと手を見る」



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北海道の歴史その1 

 先日の記事に函館の写真、歴史授業を間に挟みながらと書きましたが、その時は通常の歴史授業のつもりだったのです。でも、皆さんが北海道の歴史が楽しみと書いてくださったので、少し北海道の歴史に触れたいと思います。

 今までの歴史授業の中から、北海道に関する部分をとりあげたいと思います。室町時代蝦夷ケ島(北海道)では、南部へ和人(本州の人間)が進出するようになります。渡党(わたりとう)が、本州より移住し、本州とアイヌとの交渉に携わりました。鎌倉時代には北条氏が豪族安東氏を蝦夷管領(蝦夷代官)に任じ、渡党はその支配下に置かれ、道南十二館(どうなんじゅうにたて)に配置されました。

 1457年のコシャマインの戦いや1512年のショヤ・コウジの戦いを通じ蠣崎氏(かきざきし)が勢力を拡大し、1514年以降、渡党の他の館主に優越することとなりました。蠣崎氏は豊臣秀吉・徳川家康から蝦夷地の支配権、交易権を公認されました。江戸時代になると蠣崎氏は松前氏と改名して大名に列し、松前藩となります。

 十三湊(とさみなと)と畿内を結ぶ日本海交易ルートが14世紀繁栄しました。津軽の豪族安東氏の支配下でアイヌ人と和人が交易しますが、アイヌ人を圧迫するようになります。アイヌ民族と和人との交易品は、畿内に送る鮭、昆布、獣皮など。 越前・珠洲から十三湊・蝦夷ヶ島へは鉄製品・木綿衣類・陶器、米・食料品等です。

 コシャマインの乱は1457年に起きた和人に対するアイヌの武装蜂起です。現在の函館市にあたる志濃里(志海苔)の和人鍛冶屋と客であるアイヌ少年の間に起きた諍いをきっかけに、オシャマンベの首長コシャマインを中心としてアイヌが蜂起、和人を大いに苦しめましたが、最終的には平定され、松前藩形成の元となった事件です。

 次に江戸時代の松前。幕府は松前藩にアイヌ交易の独占を認めています。松前藩は場所請負制という制度をとります。江戸時代の松前藩は地勢的に米の収穫が望めないため、藩主が家臣に与える俸禄は石高に基づく知行ではなく、商場(場所)知行制をもって主従関係を結んでいました。この制度は、漁場およびアイヌとの交易地域である商場(場所)を設け、そこでの交易権を知行として家臣に分与する制度で、蝦夷地特有の流通制度です。

 ロシアの東方への拡大は、17世紀中頃から加速しました。しかし中国の激しい抵抗にあい、いったん勢いが止められました。かわりに北方シベリアに進出します。ロシアは日本との接触に備え、サンクトペテルブルクに日本からの漂流民を招いて日本語学校を設立しました。1739年に千島列島探検中のスパンベルク探検隊が房総半島や伊豆沿岸に接近しました。1753年には日本語学校の日本人教授を大幅に増やしてイルクーツクに移転しました。エカテリーナ2世の時代、ロシア船は択捉島・国後島まで到達します。このロシア人たちの出没を松前藩はアイヌの人々から入手していました。

 アイヌとの交易権を独占していた松前藩は、既得権益確保のため、蝦夷地以北へ日本人が渡航することを阻害していたため、蝦夷地に関する調査・研究は遅れていました。このようななか、仙台藩の藩医であった工藤平助は、北方海防の重要性を世に問うべく、「赤蝦夷風説考」を書きました。内容は蝦夷地周辺の事情、ロシアに関する地理書です。

 田沼意次も、蝦夷地にはおおきな関心をもっていました。ロシア人の南下に早急に備える必要性を認識していました。この書は田沼の目に触れることとなりました。「赤蝦夷風説考」では、ロシアの南下を警告し、蝦夷地開発とロシア交易を勧めています。田沼は1785年、全蝦夷地沿海への探索隊を派遣します。しかし、翌1786年の田沼の失脚により、この探索隊は中途で断絶してしまいました。

 まずは和人が蝦夷地に関わってくる室町時代から江戸時代まで。続きはまた。 



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