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退職教師の日本史授業

パワーポイントを用いて作った教材(主に日本史)を紹介します。その他、退職後の生活あれこれも。

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増税にも耐え… 

 日露戦争の続きです。
 
 長期にわたる戦争は日本の国力の許すところではなく、ロシアのほうも国内で革命運動がおき、戦争の継続が難しくなります。そんななか、セオドア・ルーズベルト米大統領の斡旋によって、1905年、アメリカのポーツマスで、日本側の全権小村寿太郎、ロシア全権ヴィッテのあいだに講和条約=ポーツマス条約が結ばれました。

 ロシアは①韓国に対する日本の指導・監督権を認める ②清国からの旅順・大連の租借権、長春以南の鉄道とその付属権を日本に譲渡 ③北緯50度以南のサハリン(樺太)と附属諸島の譲渡 ④沿海州とカムチャッカの漁業権を日本に認めました。

 日本の国民は、大幅な増税にも耐えて戦争を支えました。ところがこの条約では、賠償金が全くとれないのです。これに不満を爆発させ、講和条約調印の日にひらかれた講和反対国民大会は、暴動化しました。日比谷焼打ち事件です。

 1905年9月5日、日比谷公園で開かれた講和反対の国民大会。警視庁が会場の日比谷公園各門に丸太で柵を築いて入場を禁止するなどの干渉を行ったので、暴動化しました。公園内に3万人が突入。河野広中が満州各軍に屈辱条約を破棄して戦争の続行を、枢密顧問官に批准拒絶の奏上などを熱望する決議案を提案。夜にはいって、内相官邸の焼き打ち、市内各所の交番・派出所の焼き打ちや破壊などがおきました。

 しかし、前線の兵士たちは、講和と帰国の期待が強く、もう戦うだけの力がなかったのです。講和反対と騒ぐ声は、前線の兵士には疎ましいものでしかなかったようです。


 昨日gooブログとseesaaブログの方の所には、お伺いしましたが、おきてがみが不調であしあとが残せませんでした。なぜgooとseesaaだけ?それも私だけですか?本日はどうでしょうか?



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また松山へ帰りたい 

 ここはお国を何百里
 はなれて遠き満州の
 赤い夕陽に照らされて
 友は野末の石の下

 思えば悲し昨日まで
 真先を駈けて突進し 
 敵を散々懲らしたる
 勇士はここに眠れるか

 これは日露戦争時つくられた軍歌「戦友」です。見ていただけばわかるように、厭戦気分のものですよ。当時大ヒットしましたが、その後歌唱禁止になります。

 この歌は、日露戦争を戦った兵士の姿を酷薄なまでに描いたものだといわれています。凍土のロシアでの戦いに日々追われていたのです。

 その一方で、この戦争におけるロシア人捕虜の厚遇もよく言われるところです。松山に捕虜収容所がありましたが、後にロシアに送還された負傷兵が、以下のように書いています。「日本の風俗は万事善良で、教育のない者でも奉公節操の思想が発達している。学校、新聞、教会等が完備し、人民は政治に参与する。我々の多くは松山で読み書きを学び、中学校程度の教育を受けた。また松山へ帰りたい」



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日露戦争あれこれ 

 日本とロシアの交渉は1904年初めに決裂し、日露戦争がはじまりました。1905年には、半年以上の包囲攻撃で多数の兵を失った末にようやく旅順要塞を陥落させ、ついで奉天会戦で辛勝し、さらに日本海海戦では、日本の連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を全滅させました。旅順陥落では、死傷者が日露戦争の全死傷者の3分の1弱の57000余でした。

 203高地の乃木希典、日本海海戦の話、戦艦三笠、軍神となった海軍の広瀬中佐など、話題はいくつもありますが、戦争の話をあまり詳しくは書きたくないので、ここでは省略します。

 もう少し身近な話を。正露丸(征露丸)の話は前にも書きましたが、この戦争で前線向けに大車輪の生産が続きました。

 陸軍の軍服は、「義和団事件」の時にカーキ色に決められました。この色は、日光や風雨であせず出血しても目立たないため欧米の軍隊が採用しているのに倣いました。日本軍の正式名称は「かち色」。のちに国防色と改称されます。

 戦地へ送るために、「神風おこし」や戦地まで送っても腐らないからとマシュマロが売り出されもしました。

 戦争によりさまざまな商売が打撃をうけますが、なかでも貸本屋があがったりだという新聞記事があります。国民は戦局を知ろうと新聞や戦争雑誌に飛びつき、菓子本屋の探偵小説や講談本などは借り手がつかない状態だったとか。


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君死にたまふことなかれ 

 日英同盟成立後もロシアは満州に駐兵を続けたため、政府は対露交渉を続けるかたわら、開戦の準備もすすめました。国内では、キリスト教徒の内村鑑三や社会主義者の幸徳秋水・堺利彦らが、非戦論・反戦論を唱えました。国内世論も最初は戦争を好みませんでしたが、対露同志会などが決戦を叫ぶなか、しだいに開戦論に傾いていきました。

 「万朝報(よろずちょうほう)」は黒岩涙香(くろいわるいこう)の手により発行された新聞で、はじめ非戦論を唱えていましたが、世間の流れが開戦に傾くにつれ次第に論調を変化させ、開戦論に転じます。幸徳秋水や堺利彦は非戦を固辞し、万朝報を退社。平民社を創設し、平民新聞で非戦、平和を訴えていきます。

 対露強硬論者のひとり頭山満(とおやまみつる)は、対露同志会を結成、反ロシアの世論を盛り上げました。また、1903年、東京帝大教授戸水寛人(とみずひろんど)ら東大の7教授(博士)が、対露強硬論の建議書を桂首相に提出しました。これが東京朝日新聞に発表されます。対露同志会や七博士の意見書も、ジャーナリズムと結びつくことで大きな反響をひきおこしたようです。

 非戦論として、日露戦争開戦後に歌人与謝野晶子が「君死にたまふことなかれ」という反戦詩を発表しました。

 あゝをとうとよ、君を泣く、
 君死にたまふことなかれ、
 末に生れし君なれば
 親のなさけはまさりしも、
 親は刃をにぎらせて
 人を殺せとをしへしや、
 人を殺して死ねよとて
 二十四までをそだてしや。

 堺の街のあきびとの
 舊家をほこるあるじにて
 親の名を繼ぐ君なれば、
 君死にたまふことなかれ、
 旅順の城はほろぶとも、
 ほろびずとても、何事ぞ、
 君は知らじな、あきびとの
 家のおきてに無かりけり。

 君死にたまふことなかれ、
 すめらみことは、戰ひに
 おほみづからは出でまさね、
 かたみに人の血を流し、
 獣の道に死ねよとは、
 死ぬるを人のほまれとは、
 大みこゝろの深ければ
 もとよりいかで思されむ。

 あゝをとうとよ、戰ひに
 君死にたまふことなかれ、
 すぎにし秋を父ぎみに
 おくれたまへる母ぎみは、
 なげきの中に、いたましく
 わが子を召され、家を守り、
 安しと聞ける大御代も
 母のしら髮はまさりぬる。

 暖簾のかげに伏して泣く
 あえかにわかき新妻)を、
 君わするるや、思へるや、
 十月も添はでわかれたる
 少女ごころを思ひみよ、
 この世ひとりの君ならで
 あゝまた誰をたのむべき、
 君死にたまふことなかれ。



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八甲田山 

 前回1902年の日英同盟について書きましたが、1902年は八甲田山での大惨事がおきた年でもあります。第8師団は、1902年1月に、青森の歩兵第5連隊第2大隊と弘前の歩兵第31連隊による厳寒期の八甲田山雪中行軍を計画、ロシアに対する寒冷作戦の準備をしようとしました。1月23日に青森の兵営を出発した第5連隊の210人は、激しい寒波による風雪のなかで道を失い、199人の死者を出しました。生存者も手足を切断するような凍傷におかされました。

 遺体の捜索には北海道のアイヌ人が参加し、大活躍しました。雪山に慣れた人々だけに、その行動は俊敏だったようです。そしてのちの日露戦争でもアイヌ出身の兵士63人が出征し、活躍したそうです。

 いっぽう第31連隊は、1人の犠牲者も出さず帰着しました。この隊は八甲田山周囲一周という困難な任務を与えられていましたが、事前調査、夏期訓練、雪山での予備訓練を重ね、地元の案内人を雇うなど準備も周到であったため、一人の犠牲者も出さなかったと言われています。

 明暗をわけた2隊です。



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