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退職教師の日本史授業

パワーポイントを用いて作った教材(主に日本史)を紹介します。その他、退職後の生活あれこれも。

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人骨発見 

 ニュース等でご覧になってご存知の方も多いかと思いますが、東京都新宿区でおよそ4000年前の縄文時代の人骨が少なくとも11人分見つかりました。保存状態がよいので新宿区は顔の復元やDNA鑑定を行い、当時の生活を調べていくそうです。

 人骨が見つかったのは、新宿区市谷のマンションの建設予定地だそうです。工事を前に昨年11月から発掘調査を行ったところ、土器と共に少なくとも11人分の骨も見つかりました。
 
 国立科学博物館に鑑定を依頼したところ、骨は縄文人の特徴を備えているという所見を得ました。さらに、人骨の一部に放射性炭素年代測定を行ったところ、約4000年前のものであるとの結果が得られました。人骨は縄文時代中期~後期のものであるということになります。人骨は少なくとも11体分で、現段階で男女それぞれ3体が判別できるそうです。そのうち出産を何度か経験したとみられる女性の頭蓋骨では、歯が均一にすり減っていました。当時の人は自分の歯を使って革をなめしていたためだろうということです。11体のうち8体が体を伸ばした伸展葬、1体が手足を折り曲げる屈葬だそうです。縄文時代は屈葬が一般的と思っていましたが…

 人骨が出土した武蔵野台地は酸性土壌で、骨が長期間残存しないことから、関東地方では貝塚以外で縄文人の骨が発見されるのは珍しいことだそうです。新宿区では、骨から顔を復元したりDNA鑑定を行ったりして、家族構成や当時の生活を調べていくことにしています。

 久しぶりに縄文時代人の骨発見のニュース。ちょっと興奮しました。それも新宿から。11体も。骨から顔の復元とか、DNA鑑定とか、すごく楽しみです。

 しかし、この発掘現場、マンション建設予定地だとか。このニュースのかげで、マンションの関係者だけは頭抱えているでしょね。


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まねをするしかなかった清盛 

院政のスライドの第9回。今日は清盛です。

前回2月24日に平治の乱(後白河と藤原信頼)の記事を載せたのですが、誤ってこの記事を削除してしまいました。再度思い出しながら書いたものを載せましたが、前と多少かわってしまったかもしれません。またコメントを入れてくださった方、これも一緒に消えてしまいました。申し訳ありません。

院政のスライドはこちらから。

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私はインターネットエクスプローラーを使用しています。グーグルクロームを使うと、スライドが一部きちんと表示されないようです。(グーグルクロームを使ってはじめてわかりました)グーグルクロームをお使いの方、またうまく表示されない方、申し訳ありません。

この教材はパワーポイントで作成しています。PPTファイルの閲覧にはPowerPoint Viewerが必要です。
ダウンロードはこちらから。

平治の乱後の平氏の動きを、年をおってみていきましょう。
1159年、平清盛は平治の乱の功で従二位大納言になります。1164年、清盛と平氏一族は平家納経(法華経を書写)を安芸厳島神社に奉納します。1165年、後白河上皇は、清盛の助力を得て蓮華王院(三十三間堂)を建てます。これは上皇と清盛の蜜月時代を象徴するものと思われます。今後このふたりの関係は変化していきますから。

1165年、重体の二条天皇(23歳)が譲位し亡くなります。六条天皇が即位し、憲仁親王(父は後白河、母は平滋子。滋子は清盛の妻時子の妹)が皇太子となります。

1166年、後白河上皇は、源頼政の昇殿を許可します。これは源平迭立に軸足を移すためと思われます。源頼政は、平治の乱のとき藤原信頼とともに戦うのを良しとせず清盛方につきました。そのため清盛から信頼され、晩年には武士としては破格の従三位になります。しかし、平氏の専横に不満が高まる中、以仁王と結んで平氏打倒の挙兵をし、諸国の源氏に平氏打倒の令旨を伝えました。準備不足のままの挙兵となり、宇治平等院の戦いで敗れ自害しました。まあ、このあたりの話は、また平氏滅亡のところで。

1167年、清盛は従一位、武家にして初の太政大臣になりますが、5月には太政大臣を退き出家します。
1168年、六条天皇は譲位し、3月に高倉天皇(8歳)が即位します。高倉天皇は先に出てきた後白河と滋子の子です。1171年、清盛の娘徳子(17歳)が高倉天皇(11歳)の中宮となります。

1173年、清盛は日宋貿易の瀬戸内海航路の安全を確保するために大輪田泊(今の神戸港)を修築します。

このように、平氏は全盛期への階段を登っていきますが、平氏政権は、摂関家的手法と武士的な主従関係の両面性をもっています。たとえば、天皇家との姻戚関係の設定です。上にも書いたように、娘徳子を高倉天皇の中宮にし、あいだに生まれた子を安徳天皇として即位させます。これは藤原氏の外戚政策そのものです。また摂関家との姻戚関係も結びます。

次に地方武士の組織化。これは畿内や西日本の武士を家人に組み入れ、地頭に任命したりします。これは平氏の武家的性格といえましょう。
また、天台座主明雲と急速接近し、延暦寺と結びます。

こののち平氏が滅びていく時、武士である平氏が政権のトップにのぼったことに対し期待した武士たちが、平氏の貴族化に失望したからと言われますが、考えてみれば平氏はかわいそうかなと思います。
平氏は、あれよあれよという間に政権のトップにいき、トップにいったら何をするか、どうするか考える時間もなかったのではないでしょうか。そうするとまねをするしかありません。何をまねするか?前の時代の摂関政治のまねをするしかないのではないでしょうか。
平氏のこの失敗をみているから、頼朝は、同じ轍を踏まなかったのでしょう。

「平家物語」といえば「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす おごれる人も久しからず ただ春の夜の夢のごとし たけき者もついには滅びぬ 偏に風の前の塵に同じ」という冒頭部分ですよね。中学校でこの文は暗記させられているようで、高校生はよく知っています。でも、高校の日本史の授業で使うのは、この冒頭部分ではありません。平時忠が言った「この一門にあらざらん者はみな人非人なるべし」です。

さて、この平氏の全盛は清盛一代で終わります。清盛が助けた頼朝や義経の登場となります。このあたりは鎌倉幕府の成立のスライドで説明したいと思います。
その前に、院政期の文化のスライドがはいります。


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後白河と藤原信頼 

院政のスライドの第8回。平治の乱です。

院政のスライドはこちらから。

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保元の乱後、後白河は院の近臣藤原信西を重用します。その信西は平清盛を厚遇します。乱で荒廃した都の治安維持のためにも、平氏の武力は不可欠だったと思われます。清盛は日宋貿易に深く関与しています。経済的実力ももっています。信西は、息子と清盛の女の婚姻によって平氏一門と提携しました。

その一方で、後白河は、藤原信頼を抜擢します。信頼の一門は武蔵・陸奥を知行国とし、両国とつながりを持つ源義朝と連携します。
この藤原信頼、「体格は肥満で色白、衆道(男色)も好む後白河天皇に愛された。あさましき程の寵愛あり」などと書かれています。力としては信西の方が上だと思いますが、信頼にしてみれば、面白くなったのでしょうね。

さて、源義朝、保元の乱での功績は清盛と同じ、乱後親為義の首を落としたにもかかわらず、清盛ばかりが厚遇されこちらも面白くなかったのでしょう。でも、信頼と組んだのは間違いだったのではと思いますが。

信西に対する反発勢力は強く、信西打倒の機会を伺っていました。1159年、清盛が熊野参詣に赴いた隙をついて、反信西派はクーデターを起こしました。深夜、藤原信頼・源義朝の軍勢は院御所・三条殿を襲撃しました。後白河上皇などの身柄を確保すると、三条殿に火をかけました。翌日には、信西の息子が逮捕され、山城国に逃れた信西は自害しました。

清盛は、紀伊国で京都の異変を知り急遽都に戻ります。帰京までに、伊賀・伊勢の郎等が合流しました。一方、義朝はクーデターのため少人数の軍勢を集めたに過ぎず、合戦を想定していませんでした。

清盛の画策もあり、後白河は脱出し、清盛邸に入りました。清盛は官軍としての体裁を整え、信頼・義朝の追討宣旨が下されました。信頼は義朝とともに武装して出陣しますが、敗れます。
清盛の前に引き出された信頼は自己弁護をしますが、信西殺害・三条殿襲撃の首謀者であり、最後まで武装して参戦していたことから、戦闘員とみなされ処刑されました。

義朝は東国への脱出を図りますが途中で息子頼朝とはぐれ、尾張国内で殺害されました。頼朝も捕まりやはり処刑されるところを、清盛の継母・池禅尼の嘆願で助命されました。

平氏一門はこののち要職を占め、政治への影響力を増大させます。平氏の知行国も一門だけでなく郎等にも及びその経済基盤も他から抜きん出たものとなりました。清盛はその経済力・軍事力を背景に朝廷における武家の地位を確立して、参議に任命され、武士で初めて公卿の地位に就きました。やがて一門からも公卿・殿上人が輩出し、平氏政権を形成していくのですが、このあたりからまた次回。

義朝は組む相手を間違えたと思いますが、平氏は、この時助けた頼朝により後日滅ぼされることになります。何がいいのかわかりませんね。

この記事、2月24日に載せましたが、誤って削除してしまったので、思い出しながら再度書いたものです。前と多少変わっているかと思います。また、記事と一緒にコメントも消えてしまいました。本当に申し訳ありません。


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崇徳上皇の怨み 

院政のスライドの第7回。今日も保元の乱の続きです。

院政のスライドはこちらから。

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前回、保元の乱にいたるまでの皇室、藤原氏の対立関係のお話をしてきました。今日はそこに武士が登場し、いよいよ保元の乱です。

1156年鳥羽法皇が亡くなると、崇徳上皇と後白河天皇の対立は深まり、両派はそれぞれ武士に声をかけます。後白河天皇方は突如崇徳上皇側に不穏な動きがあるとして、武士の召集を開始し、源義朝、平清盛、源頼政、源義康らが味方します。

鳥羽法皇の初七日に崇徳上皇は参列しませんでした。ところが直後に後白河天皇は綸旨を出して、藤原忠実・頼長親子が荘園から軍兵を集めているとして頼長に謀反の罪がかけられました。謀反人の烙印を押された頼長は、挙兵の正当性を得るために崇徳上皇を担ぐことを決意したと思われます。崇徳陣営には源為義・源為朝・平忠正(清盛の叔父)などが集結しました。

両軍は賀茂川を挟んで対峙し、崇徳上皇方は白河北殿、後白河天皇方は東三条殿に本陣を置きました。上皇方では為朝が後白河天皇を奪うことを献策しましたが、藤原頼長が皇位をかけた戦いは白昼堂々と行うものだとしてこれを退けました。天皇方は清盛3000余騎、義朝200余騎、義康100余騎の3隊に分かれて白河北殿に奇襲を行い、同時に後白河天皇は忠通親子らを引き連れて東三条殿に行幸し、以後合戦終了までここで戦況を見守りました。清盛が為朝の守る西門を攻めますが、為朝の強弓の前に打ち負かされてしまいました。代わって義朝が西門を攻めますが、これまた為朝の強弓に撃退されました。天皇方は源頼政、源重成、平信兼らの軍兵を投入しますが、上皇方は各門で奮戦して激闘が続きます。義朝は後白河天皇に火攻の勅許を求め、これが許されると天皇方は白河北殿の西隣にある藤原家成邸に放火、火が辰の刻(午前8時)頃に白河北殿に燃え移ったため、崇徳上皇や頼長は白河北殿の東門から脱出し、上皇方の兵も先を争って白河北殿から逃走、戦闘は終結しました。東三条殿にいた後白河天皇は戦勝の報を聞くと巳の刻(午前10時)には高松殿に帰還しました。また、藤原忠実は戦いの知らせを聞くと宇治から奈良に逃亡しました。上皇方が総崩れとなる中、藤原頼長は御所から脱出しますが、源重貞の放った矢が首に刺さり重傷を負います。出血多量による衰弱が進む中、最後の望みとして、奈良に逃れていた父忠実に対面を望みますが、父にこれを拒まれ失意のうちに亡くなりました。父忠実の偏愛がこの乱の原因のひとつと考えると、最後に見放された頼長はかわいそうですね。

乱ののち、藤原忠実所有の荘園は、藤原頼長の荘園とともに没官領として接収されそうになりましたが、忠実が所有する全ての荘園を忠通に譲渡することを条件に没収は回避されました。後白河天皇は藤原頼長から没収した所領を後に院領にして経済基盤としました。
崇徳上皇は配流先の讃岐に護送。源為義を始めとして清和源氏の多くが死罪・流罪となりました。また平忠正も死罪です。保元の乱後の処理のむごいところは、平清盛が叔父忠正の、源義朝が父為義の首を切ったと言われることです。
源為朝も、死罪となるところを弓の名手だったので、その武勇を惜しまれて減刑され、伊豆大島に配流になったとされます。しかも為朝は、その伊豆大島を抜け出して、琉球に渡りその子が琉球王の始祖になったという伝説まであります(椿説弓張月)

さて崇徳上皇です。『保元物語』によると、崇徳上皇は讃岐での軟禁生活の中で仏教に深く傾倒して極楽往生を願い、写経に専念して、戦死者の供養と反省の証にと、完成した写経を京の寺に収めてほしいと朝廷に差し出したところ、後白河天皇は「呪詛が込められているのではないか」と疑ってこれを拒否し、写経を送り返してきました。これに激しく怒った崇徳上皇は、舌を噛み切って写本に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」と血で書き込み、爪や髪を伸ばし続け夜叉のような姿になり、後に生きながら天狗になったとされています。
なんともすごい話ですね。まあ、これはお話だとは思いますが、崇徳にしてみれば、自分には何の罪もないのにという思いがあったのではないでしょうか。
菅原道真にしろ崇徳上皇にしろ、怨霊伝説は後世の人間が作り上げたものですが、崇徳のこの話は、あまりに気の毒なのではと思いますが。


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白河、鳥羽、崇徳 

院政のスライドの第6回。保元の乱です。おもしろいところだと思うのですが、生徒さんたちはあまり好きではないみたいです。源氏がこっち、平氏がこっちならわかりやすいけれど、入り交じっての戦いだから、面倒くさいのでしょうね。

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保元の乱は1156年におこりました。原因のひとつは、皇室の後継者争いです。この時代天皇位は、白河→堀河→鳥羽→崇徳となります。白河法皇は、孫の鳥羽天皇を譲位させ、崇徳天皇を皇位につけました。崇徳天皇は鳥羽天皇と待賢門院璋子との間の子ですが、待賢門院はもともとは白河に仕えていて、白河が鳥羽に与えた女性です。ですから崇徳は白河との間にできた子ではないかとも言われています。だからでしょうか。崇徳は父鳥羽から疎んぜられていました。これが本当ならば、白河はなんというたぬき親父だと思いますが。また自分の罪でもないのに疎んじられた崇徳は気の毒です。まあ、確かなことかどうかはわかりませんが。
鳥羽にしてみれば、おもしろくありません。で、寵愛する美福門院との子である体仁親王を即位させました。近衛天皇です。この時の譲位の宣命には近衛を崇徳の「皇太弟」と記されていました。天皇が弟では将来崇徳が院政を行うのは無理なんです。治天の君になれません。治天の君となりうる資格要件は2つあります。まず、天皇位を経験していること。次に、現天皇の直系尊属であることです。

この近衛天皇が17歳の若さで亡くなり、次に鳥羽の子後白河天皇が即位しますが、この時に自分の息子が即位できるかと考えていた崇徳はおもしろくありません。

というように、皇室内部での争いがあります。

もひとつは、藤原氏の内紛です。藤原氏は忠実が氏の長者でした。この忠実は息子であり関白の兄忠通を嫌い、才能溢れた弟の頼長を偏愛しました。忠通は頼長の23歳上です。忠実はおそくに生まれた頼長がかわいかったのでしょう。この父の弟偏愛が忠通と頼長の対立を生みます。1150年には忠実は氏長者を忠通から奪い頼長に、1151年には忠実により頼長は内覧の宣旨を受け、関白と内覧が並立するという異常事態になりました。

1155年近衛天皇が亡くなると、忠通の推す後白河天皇が即位しました。そうすると、頼長は近衛天皇を呪詛した疑いをかけられ鳥羽法皇の信任を失います。1156年鳥羽法皇が崩御すると、崇徳上皇と後白河天皇の対立は深まり、両派はそれぞれ武士を集めるようになります。

ここから保元の乱になっていきます。

わかりにくいかもしれませんが、人間関係が理解できたでしょうか。簡単にいけば、不満をいだいていた崇徳と藤原頼長が手を結ぶことになるわけです。となれば、後白河と忠通も手を結ぶでしょう。そこにそれぞれ武士が味方するわけです。
ここに武士がどう絡んでくるか。ではそこからまた次回。


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