昨日、カウンターの数字が10,000を超えました。このカウンターは、ダブルカウントをしないようにしているので、純粋にのべ10,000人の方がこのブログを訪問してくださったことになります。
ブログ開設から1年もしないうちに10,000になるなんて思ってもいませんでした。とても嬉しいです。
これも、ご訪問、応援して下さる皆さんのおかげです。
本当にありがとうございます。
でもまだたかが8ヶ月。長く続けられるように頑張ります。
引き続きよろしくお願いいたします。

さて、では授業にいたしましょうか。

鎌倉武士の生活

今日は鎌倉武士の生活のスライドです。

鎌倉武士の生活のスライドはこちらから。

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鎌倉時代の武士の多くは領地である農村に住んでいました。武士たちは農民を使って田畑の経営しながら、武芸に励んでいました。武士の館は「住居」としての役割のほか、戦のときに敵からの攻撃を守る「砦」としての役割をかねそなえていました。館は 荘園、公領の中心地に構築されます。周囲に土塁、板塀、堀を構築、櫓門を設置してあるのが、砦としての役割をあらわしています。館の内には主の住居である主屋(おもや)、倉庫、厩(うまや)などが設けられ、館の周囲には先祖を祀った神社や郎党、下人たちの家、牧(まき)などが配されていました。

主屋(おもや)は主人一家が寝泊りしたり、客を迎える中心の建物ですが、その他に牧(まき)と厩(うまや)があります。武士は戦いのとき馬に乗って戦場に出向きます。良い馬を持つことは武士にとっては大切なことです。ですから自分の領地内に馬を運動させる牧もあります。また夜には厩で休ませました。厩は屋敷内にあり、馬は大切に扱われていました。

武士たちは自らも農業を営んでいました。館の門前には直営地である門田、門畑を設け、郎党や下人に耕作させていました。

しかし農業をやりつつも、武士たちは武芸の鍛錬を怠ることはありませんでした。流鏑馬や犬追物など弓矢の訓練に励んでいました。
流鏑馬とは疾走する馬上から的に鏑矢(かぶらや)を射るものです。馬を走らせながら矢を射ることから、「矢馳せ馬(やばせうま)」と呼ばれ、それが「やぶさめ」と言われるようになったとも。

犬追物は馬場に36騎の騎手、2騎の検分者、150匹の犬をはなし、一定時間に騎手が何匹犬を射たかで争います。しかし実際に犬を打ち抜くことは無いそうです。特殊な矢を使用したそうです。

これに笠懸を加えて、騎射三物といいます。笠懸は流鏑馬と同じように疾走する馬上から的を射ますが、的の配置に左右、高低、大小と変化を付けた的を射抜くため、流鏑馬より難易度が高く、より実戦的です。

流鏑馬は神事として最近各地で行われていますね。鎌倉でも鶴岡八幡宮で。


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皆さん、横須賀の町にはどのようなイメージをお持ちですか?
昔は、海軍の町ですかねー。
戦艦三笠がありますしね。
海軍カレーなんていうのも名物?です。

今は米軍基地と自衛隊の町ですか?
ではそれっぽい写真を。
横須賀港1
ネービーバーガーなんていうのも名物?ですしね。

山口百恵さんの出身地。京浜急行電鉄は、各駅でそこに関係のある音楽を発車時に流すのですが、横須賀はもちろん横須賀ストーリーです。ちなみに横浜はブルーライトヨコハマ。ゆずや小田和正さんの曲が流れる駅もあります。

歴史的には、古くは縄文時代の夏島貝塚、坂本龍馬の妻おりょうさん関連の場所もありますし、小栗上野介はご存知ですか?
小栗は1860年、日米修好通商条約批准のため米艦ポーハタン号で渡米し、地球を一周して帰国しました。その後は多くの奉行を務め、江戸幕府の財政再建や、フランス公使ロッシュに依頼しての洋式軍隊の整備、横須賀製鉄所(後の横須賀海軍工廠)の建設などを行いました。
小栗は横須賀製鉄所の所長としてフランソワ・レオンス・ヴェルニーを任命しました。

で、横須賀にはヴェルニー公園というのがあります。
ヴェルニー公園
小栗とヴェルニーの像です。

ヴェルニー公園は、今薔薇が盛りです。
紅
紅という薔薇です。

何回か、薔薇シリーズをお届けしたいと思います。


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執権政治に関するスライド9回目です。

執権政治に関するスライドはこちらから。

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今日は、5代執権北条時頼のところからです。時頼の時代は以前に書いた摂家(藤原)将軍の廃位、皇族将軍宗尊親王の擁立、宝治合戦等により幕府権威というか北条氏の権威が向上した時代です。

宝治合戦とは、北条時頼が、親戚の安達景盛とともに有力御家人だった三浦泰村一族をほろぼした戦いです。時頼は、母の実家である安達氏に命じて三浦氏を挑発し、合戦の末、三浦一族ほか500余名を自害に追い込みました。この戦いの勝利により、北条氏に対抗する有力御家人はいなくなり、幕府内での北条氏の地位を不動のものにしました。また藤原将軍に代わる皇族将軍をむかえ、北条氏独裁の性格を強めていきます。藤原将軍は、反執権派の御家人に担がれそうになりましたが、皇族将軍は幕政に関与しません。

三浦氏は幕府創設以来の御家人で、有力御家人が次々と排斥されていった中でも生き残りました。実朝暗殺のところでもでてきましたが、北条とのつきあい方を間違えなかったのでしょう。
しかしこの三浦氏の滅亡により合議制の執権政治は終わりを告げます。北条得宗家による専制体制が確立しました。

このなかで三浦氏佐原流は生き残り、のちに三浦姓を名乗って三浦家を再興します。まあこれは余分な話ですが、「佐原」は以前勤務していた学校の近くの地名なので…

時頼の時代には、引付衆が置かれます。引付衆は、評定衆を補佐し、御家人の領地訴訟の裁判の迅速さと公正さをはかるために置かれたものです。後には北条氏の若年者で独占され、評定衆に昇任する出世コースとなり、実質的な訴訟審理的役割は薄らいだようです。

鎌倉に明月院というお寺があります。明月院は禅興寺というお寺の塔頭(たっちゅう)でしたが、禅興寺は明治初めに廃絶し、明月院のみが残りました。禅興寺の起源は時頼だそうです。時頼は別邸に持仏堂を造営し最明寺と名付けましたが、時頼の死後は廃絶していました。時頼の息子の北条時宗がこれを再興し、禅興寺としました。明月院は、あじさい寺として有名です。あじさいの時期、行ってみたいと思います。
明月院
以前載せた明月院の写真です。


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放送大学で見たのでちょっとやってみました。
何を?平衡性チェック( 閉眼片足立ちテスト)です。

身体のバランスをとる能力は加齢とともに低下します。目を閉じた状態での平衡性には、主に小脳、耳の奥の三半規管の機能が関わっていて、これらは、片足立ちなどのバランストレーニングをすることで向上させることができるそうです。

閉眼片足立ちテストのやり方は簡単です。
1.両手を腰にあて、両目をつぶり、左右どちらでも立ちやすい側の足で片足立ちになります。
2.上げた足は軸足には触れないようにして、高さとか位置は自由です。
3.軸足が少しでもずれたり、上げた足が床に着いた時点で終了。その時間を測定します。

高齢者の特徴は、この時間が短くなることだそうです。
で、やってみました。
ショック!足をあげたとたん身体がグラグラ。それでもなんとか我慢します。
私の年齢では、8~21秒が普通だそうですが、なんとかそこにははいっていますが…

http://jhei.net/exercise/exercise_f/exercise_f4.html に評価の表が載っていますから、よかったらやってみてください。

私の脊柱管狭窄症も、内科の主治医に言わせると「10年早いんじゃない?」というような、ひとつには老化が原因のものらしいです。手の指の第一関節の節がかたくなってきたので、これも主治医に聞いてみたら、「お母さんとかもそうなっていない?老化だよ」と言われました。ヘバーデン結節というみたいです。でも、うちの母がそうなったのは、70代ですよ(>_<)
気は若いのですが、私は人より老化がはやいの?
いえいえそんなことありません。脊柱管狭窄症は、飲んでいる薬の副作用が影響しているし、ヘバーデン結節は40代以降の女性にみられると書いてありましたから。と思って、慰めています(^^;)

5月11日1


5月11日2

毎度毎度お花の名前を知らなくてすみません。
これ、ビルの中の装飾用のお花なんですが、見たことないお花で綺麗だったので撮ってみました。


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執権政治に関するスライド8回目です。

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今日は貞永式目(御成敗式目)の制定についてです。
この時代、訴訟を司る機関として問注所がありますが、そこであつかう訴訟は家督・所領の係争での裁判が多いわけです。で、その裁判のための基準が必要になります。
北条泰時は、その基準を定めるにあたり、「道理」(武家社会の習慣や道徳)と「頼朝以来の先例」を重要視します。
「道理」は文章にはされていないけれど、武士の間で浸透していた慣習です。頼朝以来の先例とは、頼朝様ならこの場合こうやったという今でいう判例です。鎌倉幕府にとっては「頼朝様」ですからね。それももっともだと思います。

しかし、幕府がこうした法令を作ることを朝廷側は面白く思わないでしょうね。で、幕府は最初この法令を使う範囲を幕府の勢力範囲(御家人社会)に限定します。朝廷の支配下では律令の系統たとえば公家法や本所法(荘園領主の支配下)を使えばいいというのです。このことは北条泰時の、弟重時(六波羅探題)への消息(書状)にも書かれています。「…武家の人へのはからひのためばかりに候。これによりて京都の御沙汰、律令(養老律令のこと)のおきて聊もあらたまるべきにあらず候也。…」
しかし鎌倉幕府の勢力拡大に伴って徐々に適応範囲も拡大します。

この貞永式目は全部で51条です。さてこの51という数字は何?書きたいことを書き連ねていったら51条になってしまったわけではないようです。先に51という数字があったようです。では、51とは何なんでしょうか。51は17×3です。と書くと、何か思い出しますか?17は十七条の憲法の17です。十七条の憲法は厳密には法令とはいえないと思いますが、十七条の憲法を重要視し、条文は17に関係深い数字にするようです。室町幕府は建武式目を作りますが、こちらは17条ですから。しかしこの建武式目は施政方針のようなものですから、室町時代も基本法は貞永式目のようです。


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